IHSガブリエルワールドニュースとは何か――ガブリエルの名のもとに、すべてのキリスト者へ、そして全人類へ。愛を運ぶことの意味と使命について。

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IHSガブリエルワールドニュースとは何か――ガブリエルから世界へのメッセージ | IHSガブリエルニュース

IHS GABRIEL WORLD NEWS / IHSガブリエルワールドニュース

創刊理念・使命宣言 / Mission Statement & Founding Vision

理念・使命 IHSガブリエルニュース編集部

IHSガブリエルワールドニュースとは何か
――ガブリエルの名のもとに、すべてのキリスト者へ、そして全人類へ。愛を運ぶことの意味と使命について。

「ガブリエルよ、この幻をその人に悟らせよ。」
――ダニエル書 8章16節

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
――ルカ福音書 1章28節 大天使ガブリエルのマリアへの言葉


はじめに――名前が示す使命

あらゆるメディアには、その名前の中に使命が宿っている。

「IHSガブリエルワールドニュース」という名前を聞いたとき、ひとは何を思うだろうか。「IHS」はラテン語「イエズス・ホミヌム・サルウァトール(Iesus Hominum Salvator:人類の救い主イエス)」の略称であり、中世以来カトリック教会において最も深く愛されてきたイエスの聖名の印だ。「ガブリエル」は大天使の名であり、「神の力(ゲブール・エル)」を意味するヘブライ語に由来し、旧約ではダニエルに幻を解き明かし、新約ではマリアに神の最も深い秘密を告げた「使者の使者」だ。「ワールドニュース」は文字通り「世界の知らせ」であり、その言葉は「世界のすべての人に向けて語りかける」という普遍的な意図を示している。

この三つの言葉が合わさるとき、一つの宣言が生まれる。「イエスの名において、ガブリエルのように、世界全体に向けて知らせを届ける」という宣言。これがこのメディアの存在意義のすべてだ。

しかしその宣言は単純ではない。ガブリエルが届けた「知らせ」は、権力の交代でも、経済の動向でも、政治的宣言でもなかった。それはずっと深いところからやってきた。「神はあなたを愛している。神の子があなたの中に宿る」という、人類の歴史の中で最も根本的な一つの出来事の告知だった。

IHSガブリエルワールドニュースが運ぼうとする「ニュース(知らせ)」も、そのガブリエルの告知の精神を継ぐものだ。それは情報ではなく、愛の告知(アンヌンティアティオ・アモーリス)だ。それはデータではなく、現実の中で生きている人間の魂に届く言葉だ。それは政治的な主張ではなく、すべての境界を超えた「神はあなたを愛している」という根本のメッセージを、現代という時代の文脈の中で語り直す試みだ。

この記事では、IHSガブリエルワールドニュースの誕生の背景・理念の核心・使命の構造・ガブリエルという名が持つ神学的・霊的な意味・そしてこのメディアがすべてのキリスト者と全人類に向けて運ぼうとしている「愛のメッセージ」の内容を、できる限り丁寧に語る。


第一部:ガブリエルという名の神学――なぜ「ガブリエル」なのか

1.「神の力」という名が示すもの

「ガブリエル(Gabriel)」という名は、ヘブライ語「גַּבְרִיאֵל(ガブリエル)」に由来する。これは「גֶּבֶר(ゲベル:力ある者・英雄)」と「אֵל(エル:神)」の複合語であり、「神の力・神の英雄的力・神は力ある者」を意味する。

この名前が示す逆説に注目したい。「力(ゲブール)」という名を持つ存在が、その力を使って何をするか。支配するわけではない。強制するわけでもない。ガブリエルがその「神の力」を用いて行うのは、ただひとつ――「告げること(アンヌンティアーレ)」だ。神の意志を、神の愛を、神の計画を、言葉として人間に届けること。これがガブリエルの「力の使い方」だ。

力を持ちながら、強制しない。神の最も深い秘密を知りながら、それを人間に押しつけない。ただ、丁寧に、愛をもって「告げ」、相手の自由な応答を待つ。これがガブリエルの様式であり、IHSガブリエルワールドニュースが理想とする「伝えることの様式」でもある。

2.旧約のガブリエル――幻の解き明かし手

ガブリエルが「名前」として聖書に最初に登場するのはダニエル書だ。ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚という人類史上の破局の時代、預言者ダニエルは神の幻を見て戸惑い、苦しんでいた。意味がわからない。方向が見えない。歴史の暗闇の中に立って、何も解読できない。

そこに神の声が聞こえた。「ガブリエルよ、この幻をその人に悟らせよ」(ダニエル8:16)。ガブリエルは「すみやかに飛んできて(מְעוּפָף בִּיעָף)」、ダニエルに近づき言った。「ダニエルよ、わたしは今あなたに、知恵と悟りを与えるためにきました」(9:22)。

この場面が示すガブリエルの本質は「解き明かし手」としての役割だ。混乱の中に立つ人間に近づき、わからないものをわかるようにする。暗闇の中に光を持ち込む。絶望の中に方向を示す。歴史の意味が見えなくなったとき、神の意志の輪郭を指し示す。

現代もまた「ダニエルの時代」に似ている。世界は複雑で、宗教は分断され、価値観は断片化し、人々は「何を信じればいいのか」「どこに向かえばいいのか」という根本的な問いの前に立ちすくんでいる。IHSガブリエルワールドニュースが担おうとする役割のひとつは、この「解き明かし手(インタープレター)」としての機能だ。世界の出来事の意味を、信仰の光から読み解き、方向を失った人々に「こちらです」と静かに指し示すこと。

3.新約のガブリエル――受胎告知という人類史上最大の使命

ガブリエルが聖書において担った最大の使命は、言うまでもなく「受胎告知(アンヌンティアティオ)」だ。ルカ福音書1章26-38節に記されたこの場面は、人類の歴史における最も決定的な出来事の前夜に起きた。

「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった」(1:26-27)。

ガブリエルは来た。神の最も深い秘密を携えて、世界の辺境の小さな町に、名もない一人の若い女性のもとに来た。権力の中枢ではなく、ナザレというガリラヤの小村に。神殿ではなく、一人の乙女の日常の場所に。これは偶然ではない。神の愛の論理は人間の権力の論理と逆転している。最も大切なことは、最も予期されない場所で、最も地味な方法で告げられる。

ガブリエルの最初の言葉は「おめでとう、恵まれた方(ケカリトーメネー)」だった。これは挨拶ではなく、宣言だ。「あなたはすでに神に愛されている。あなたはすでに恵みに満たされている」という存在論的な確認の言葉だ。ガブリエルはマリアに「あなたは誰であるか」を、彼女が自分で知っていたよりも深く告げた。これもガブリエルの役割の本質だ。人間に「あなたが本当に誰であるか」を告げること。あなたは偶然に生まれたのではない、神に愛されている、神の計画の中に置かれている存在だ――という根本的な尊厳の宣言。

マリアは「フィアット(こうなりますように)」と応えた。ガブリエルは使命を果たし、静かに去った。告げた、受け取られた、去った。この潔さの中にガブリエルの謙遜の深みがある。IHSガブリエルワールドニュースもまた、このガブリエルの様式に倣いたい。ただ届けること、受け取られること、そして出しゃばらないこと。

4.ガブリエルの「全宗教性」――ユダヤ・キリスト・イスラームを超える普遍

ガブリエルの特異性のひとつは、その「宗教的普遍性」にある。ガブリエルはユダヤ教・キリスト教・イスラームという三つのアブラハムの宗教すべてに登場し、それぞれの伝統において「神の最も重要な言葉を届ける使者」として機能している。

ユダヤ教においてガブリエルはダニエルへの幻の解釈者であり、タルムードでは神の玉座の最も近くに立つ四大天使のひとりとして崇められる。キリスト教においてはザカリアへの洗礼者ヨハネの誕生告知と、マリアへの受胎告知という二つの決定的な場面を担った。イスラームにおいてはジブリール(ジェブリール)として、預言者ムハンマドにクルアーン全体を授けた「啓示の天使」として最も崇高な位置を占める。

三つの宗教に共通して「最も大切な言葉を届ける者」として登場するガブリエルの普遍性は、IHSガブリエルワールドニュースが目指す「宗教的境界を超えた普遍的な告知」という方向性の霊的な根拠となっている。このニュースメディアは、ガブリエルの名のもとに、特定の宗教の宣伝機関ではなく、すべての宗教的探求者・霊的探求者・信仰を持つすべての人々に向けた「愛の告知の場」として立つことを志す。


第二部:IHSという名の深み――「人類の救い主イエス」の印

1.IHSの歴史と神学的意味

「IHS」はギリシャ語の「ΙΗΣΟΥΣ(イエスース)」の最初の三文字「ΙΗΣ」のラテン文字化であり、中世以来カトリックの典礼・芸術・祈りの空間において最も普遍的に用いられてきた「イエスの聖名の印」だ。後にラテン語「Iesus Hominum Salvator(人類の救い主イエス)」の略称としても解釈されるようになり、「すべての人間の救い主」という普遍的な意味が加わった。

「ホミヌム(hominum)」は「すべての人間の」を意味する属格複数形だ。特定の民族の、特定の文化の、特定の時代の救い主ではなく、「すべての人間(オムネス・ホミネス)」の救い主。この普遍性こそが「IHS」という三文字が担っている神学的内容だ。

IHSガブリエルワールドニュースの名の冒頭にこの「IHS」が置かれていることは、このメディアが「すべての人間に向けた言葉を運ぶ」という使命を最初から宣言していることを意味する。特定の国の、特定の宗教の、特定の文化の読者だけに向けたメディアではない。「すべての人間(ホミネス)」に向けた、愛の告知のメディアとして立つという宣言だ。

2.イグナチオとIHSの精神

IHSという印を修道会の紋章として世界に広めたのは、ロヨラのイグナチオが1540年に創設したイエズス会(Societas Iesu:イエスの会)だ。イエズス会の紋章に刻まれたIHSは、「すべてをイエスの名において(オムニア・アド・マイオレム・デイ・グロリアム:すべてを神の大いなる栄光のために)」という精神を視覚的に表現している。

イグナチオが生涯をかけて体系化した「霊操(エクセルシア・スピリトゥアリア)」の核心は「識別(ディスケルニメント)」だった。神の意志を見分け、神の意志に従って動く。自己の利益や恐れではなく、神への愛と人類への奉仕を動機として行動する。この識別の精神はIHSガブリエルワールドニュースの編集姿勢にも通底している。「何を伝えるべきか」「どう伝えるべきか」「何のために伝えるのか」を、常に神への愛と人類への奉仕という原点から識別し直すこと。これがIHSの名を冠するメディアの責任だ。


第三部:「ワールドニュース」とは何か――「よい知らせ(エヴァンゲリオン)」の現代的実践

1.「ニュース(知らせ)」の語源に帰る

英語の「news(ニュース)」は「新しいこと(new things)」の複数形として歴史的に形成された言葉だが、その最も深い意味において「ニュース」は「告知(アンヌンティアティオ)」であり「知らせ(メッセージ)」だ。そしてキリスト教の文脈において「最も重要な知らせ」を意味するギリシャ語は「エヴァンゲリオン(εὐαγγέλιον)」――「福音(よい知らせ)」だ。

「エヴァンゲリオン」は「エウ(eu:良い)+アンゲリア(angelia:知らせ・告知)」の複合語だ。「エウ・アンゲリア」は文字通り「良い告知」であり、「アンゲロス(ἄγγελος:天使・使者)」と同じ語根を持つ。天使=アンゲロスとはすなわち「使者(メッセンジャー)」であり、ガブリエルはまさにこの「エヴァンゲリオン(よい知らせ)」を携えた「アンゲロス(使者)」だった。

つまり「ガブリエルニュース」という名は、「エヴァンゲリオン(よい知らせ)を届けるアンゲロス(使者)」という意味において、「福音を告げる天使」という直接的な神学的含意を持つ。IHSガブリエルワールドニュースはこの語源的な意味を意識的に担う。私たちが運ぶ「ニュース」の最深の層に、常に「福音(よい知らせ)」が流れていることを忘れない。それは「神はあなたを愛している。神は世界を見捨てていない。愛は絶望より力強い」という変わらない根本のメッセージだ。

2.「ワールド(世界全体)」という射程

「ワールドニュース」の「ワールド」という言葉もまた、軽く見過ごされてはならない重みを持つ。

ヨハネ福音書3:16の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世界(コスモン)を愛された」という言葉において、「世界(コスモス)」はカトリックだけでも、キリスト教だけでも、日本だけでも、西洋だけでもない。文字通り「世界全体(ザ・ホール・ワールド)」だ。神の愛は宗教の国境を持たない。信者でない人も愛されている。仏教徒も、イスラーム教徒も、無宗教者も、神話を愛する者も、すべて「コスモス」の一部として愛されている。

IHSガブリエルワールドニュースが「ワールド(世界全体)」という言葉を名前に持つのは、この神の愛の普遍性への応答としてだ。このメディアは日本語で書かれ、日本から発信されるが、その射程は「日本語を読める人」を超えている。私たちが語る内容は、翻訳可能な普遍性を持っていなければならない。宗教の壁を越えて届くものでなければならない。文化的背景の差異を超えて共鳴するものでなければならない。それが「ワールドニュース」という名を担うことの責任だ。

3.「日本発・世界向け」という独自の立場

IHSガブリエルワールドニュースはIHSベツレヘム修道会というカトリック系の修道会的組織を母体として、日本から発信されるメディアだ。この「日本から」という出発点は、単なる地理的偶然ではなく、霊的・文化的な必然性を持つ。

日本という土壌は、世界的に見ても稀有な宗教的包容性を持つ。神道・仏教・キリスト教が長い歴史の中で共存してきたこの国から、「すべての宗教的伝統を尊重しながら、愛という普遍的な価値を告げる」という使命を持つメディアが生まれることは、深い霊的な文脈を持っている。神道の「和(ワ)の精神」、仏教の「慈悲(カルナー)」、キリスト教の「アガペー」――これら三つの伝統が交差する場所に立ちながら、私たちは「愛は人類の共通言語だ」という確信をもって語りかけることができる。

またバチカンが1970年代から関係の深化を図ってきた正教会との対話、アジアのカトリック教会が担ってきた仏教・ヒンドゥー教との対話の蓄積、そして日本という場が持つ「平和と和解の証言地」としての歴史(特に広島・長崎という文脈)は、IHSガブリエルワールドニュースが「平和と和解の告知者」としての使命を担う上での霊的基盤だ。


第四部:愛を運ぶことの意味――このメディアの根本的な使命

1.「愛(アガペー)」という言葉の不可能な重さ

「愛を運ぶ」と言うのは簡単だ。しかしその言葉の重さは、安易に担えるものではない。

ヨハネ第一書簡4:8の「神は愛である(ホ・テオス・アガペー・エスティン)」という宣言は、キリスト教神学の最も深い核心を三語で言い切ったものだ。「神は愛である」ということは、愛そのものが神的な現実(ディヴィーン・リアリティ)であることを意味する。愛は感情ではない。愛は選択だ。愛は自己超越だ。愛は他者のために自らを与えることだ。コリント第一書簡13章が描く「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛は妬まない……愛はいつまでも滅びない」という愛の描写は、感情の波の描写ではなく、存在様式(モード・オブ・ビーイング)の描写だ。

メディアが「愛を運ぶ」とはいかなることか。それは「愛についての情報を提供する」ことではない。「愛の実例を報告する」だけでもない。それは自らの記事・論説・報道のすべてが「愛という存在様式から書かれている」ということだ。批判するときも、怒るときも、警告するときも、悲しむときも――その根底に「この世界と、この世界に生きる一人ひとりへの愛」が流れていること。愛がない批判は単なる攻撃だ。愛がない警告は単なる恐怖の拡散だ。愛がない悲しみは単なる絶望の増幅だ。

IHSガブリエルワールドニュースは、愛から書かれたメディアでありたい。完全にそれを達成できるとは言えない。しかし、常にその原点に立ち帰ろうとする姿勢を持ち続けること――これが「愛を運ぶ」ということの最初の実践だ。

2.「告知する(アンヌンティアーレ)」ことと「証しする(テスティフィカーリ)」ことの違い

ガブリエルがマリアに届けたのは「神学的命題」ではなかった。「神はあなたを愛している」という一つの具体的な関係の現実だった。告知(アンヌンティアティオ)は、抽象的な教義の解説ではなく、「今ここで、あなたに向けて起きていること」を届けることだ。

IHSガブリエルワールドニュースが運ぼうとするのも、この「具体的な関係の現実」だ。「世界では今こんなことが起きている。その中でも愛は生きている。この人が愛を体現した。この共同体が愛によって動かされた。この出来事に神の恵みの痕跡がある」という証しの言語で語ること。証し(テスティモニア)は宣伝ではない。押しつけでもない。「わたしはこれを見た、これを経験した」という個人的かつ普遍的な確認だ。証しは他者を強制しない。しかし証しは人を動かす。証しは心の深いところに届く。なぜなら証しは「生きた言葉(ウィウム・ウェルブム)」だからだ。

3.「すべてのキリスト者へ」という呼びかけ

IHSガブリエルワールドニュースは、まず「すべてのキリスト者」に向けて語りかける。カトリック・プロテスタント・正教会・聖公会・コプト教会・エチオピア正教会・アルメニア使徒教会――キリスト教のあらゆる宗派に属する者、あるいはかつてキリスト教に属し今は距離を置いている者も含めて。

キリスト者が「すべてのキリスト者(オムネス・クリスティアーニ)」として一つに呼び集められるとき、その根拠はただひとつ――洗礼(バプティスマ)だ。「一つの主、一つの信仰、一つの洗礼(エフェソ4:5)」という使徒パウロの言葉が示すように、洗礼によってキリストに結ばれたすべての者は、教義上の差異・組織上の別れ・歴史的な傷を超えて、根本において「一つの体(コルプス・クリスティ)」のメンバーだ。

ガブリエルが「すべてのキリスト者に告げること」は何か。それはエキュメニズム(キリスト教一致運動)の神学的な議論ではない。もっと根本的なことだ。「あなたがたは一つだ」という神の現実の再確認だ。「あなたが属する宗派・教会・伝統の違いは、あなたが根本においてキリストに結ばれているという事実を変えない。キリストはあなたのための。キリストはあなたの中に生きている。この根本を忘れないでほしい」という呼びかけだ。

現代のキリスト教は、宗派間の対立・教義的な断絶・歴史的な傷によって深く傷ついている。カトリックとプロテスタントの五百年の分離、東西教会の千年の分裂、さらに無数の小さな亀裂と対立。しかしガブリエルの告知は、そのすべての亀裂の下に流れている「神の愛による一致」という現実を指し示す。亀裂を否定するのではなく、亀裂より深いところにある一致の根を確認すること――これがIHSガブリエルワールドニュースがすべてのキリスト者に向けて語りかけるときの姿勢だ。

4.「全人類へ」という更なる射程

しかしガブリエルワールドニュースの射程は「キリスト者」だけにとどまらない。ガブリエルが届けた「よい知らせ」は、ルカ福音書2:10において「民全体に与えられる大きな喜び(シャルマン・メガレン・パンティ・トー・ラオー)」として語られた。「民全体(パス・オ・ラオス)」――これは「すべての人類」を含む普遍的な表現だ。

「神は世界(コスモン)を愛された(ヨハネ3:16)」という言葉が示すように、神の愛はキリスト者の独占物ではない。仏教者も、イスラーム教徒も、ヒンドゥー教徒も、神道の信者も、無宗教者も、神話を愛する者も、すべて「神に愛されているコスモスの一部」だ。IHSガブリエルワールドニュースはこの普遍的な愛の現実を出発点として、すべての人間に向けて語りかける。

「すべての人間に向けて語りかける」とは「すべての人間が同じように信じるよう求める」ことではない。多様性を消して単一の信仰に統合しようとすることでもない。それは「すべての人間が神に愛されているという現実を、それぞれの文脈で、それぞれの言語で、それぞれの伝統の中で、より深く発見するための助けをする」ということだ。カトリックはカトリックのまま、仏教者は仏教者のまま、神話愛好者は神話愛好者のまま――それぞれが「愛されている」という根本の現実に、より深く触れることができるように。これがIHSガブリエルワールドニュースが「全人類へ」と語るときの意味だ。


第五部:ガブリエルから世界へのメッセージ――普遍的な告知

「恐れるな(メー・フォボー)」――第一のメッセージ

聖書においてガブリエルが人間に語りかけるとき、最初の言葉は常に「恐れるな(メー・フォボー)」だ。ザカリアに現れたとき「恐れることはない(メー・フォボー、ザハリア)」(ルカ1:13)。マリアに現れたとき「マリア、恐れることはない(メー・フォブー、マリアム)」(ルカ1:30)。

恐れは人間の存在の根本的な色調だ。死への恐れ、失敗への恐れ、見捨てられることへの恐れ、意味のない人生への恐れ、他者への恐れ、未来への恐れ。現代という時代は特に「恐れの時代」だ。気候変動への恐れ、AIへの恐れ、戦争への恐れ、孤独への恐れ、宗教への恐れ。

ガブリエルの第一のメッセージは、この「恐れ」への根本的な応答だ。「恐れるな」という言葉は「危険はない」という現実逃避ではない。「あなたは恐れを超えた根拠を持っている」という確認だ。神があなたと共におられる(インマヌエル)という現実が、すべての恐れより大きいという宣言だ。

IHSガブリエルワールドニュースが世界に届けたい最初のメッセージは、このガブリエルの「恐れるな」の継承だ。恐れを消すのではなく、恐れより大きな愛の現実を指し示すこと。この時代の恐れを直視しながら、その恐れの下に流れている「神はあなたと共におられる」という根拠を証しすること。

「神はあなたを愛している(アガパオー・セ)」――第二のメッセージ

ガブリエルがマリアに語りかけた「おめでとう、恵まれた方(ケカリトーメネー)」という言葉の核心は「あなたは愛されている」という存在論的な宣言だった。マリアは自分が「ケカリトーメネー(完全に恵みを与えられた者)」であることを知らなかった。ガブリエルが来て初めて、彼女は自分が誰であるかを、本当の深さで知った。

現代においても、多くの人が「自分は愛されていない」「自分には価値がない」「自分の存在は意味がない」という暗闇の中に生きている。孤独・自己否定・承認への飢え・存在意義の喪失――これらはすべて「愛されていないという感覚」の変形だ。

IHSガブリエルワールドニュースが世界に届けたい第二のメッセージは「神はあなたを愛している」という、ガブリエルがマリアに告げた確認の継承だ。あなたが信者かどうかに関わらず。あなたの宗教が何であるかに関わらず。あなたがどんな失敗をしてきたかに関わらず。あなたがどんな問いを抱えているかに関わらず。神はあなたを愛している。この現実はあなたが気づいていても気づいていなくても変わらない。ガブリエルの使命は「すでに存在している愛を、それを知らなかった者に告げること」だったように、IHSガブリエルワールドニュースの使命もまた、「すでに存在している神の愛を、それを忘れていた者・知らなかった者に、もう一度届けること」だ。

「神の力は不可能を可能にする」――第三のメッセージ

ガブリエルがマリアに語りかけた最後の言葉は「神には何事も不可能ではありません(ウー・アデュナテーセイ・パラ・トゥー・テウー・パン・レーマ)」(ルカ1:37)だった。

老齢のエリザベトも妊娠している。処女から神の子が生まれる。人間的な計算からすれば不可能なことが、神においては可能だ。この言葉は奇蹟についての主張ではなく、「希望の根拠」についての宣言だ。人間の論理が「もはや不可能だ」と結論する場所でも、神の愛はまだ働いている。歴史が絶望を告げるとき、ガブリエルは「神には何事も不可能ではない」と言う。

世界が分断され、宗教が対立し、愛が困難に見えるこの時代において、IHSガブリエルワールドニュースが届けたい第三のメッセージはこれだ。「愛は不可能ではない。和解は不可能ではない。赦しは不可能ではない。人類が互いを尊重して共に生きることは不可能ではない。神には何事も不可能ではないから」。これは楽観主義ではない。絶望を経た上での、根拠ある希望(スペス)の宣言だ。


第六部:IHSガブリエルワールドニュースの編集理念――何を書き、何を書かないか

「愛の告知者」としての編集姿勢

IHSガブリエルワールドニュースは「愛の告知者(アンヌンティアトール・アモーリス)」として、以下の編集理念を持つ。

第一に、「人間の尊厳への敬意」を根本に置くこと。いかなる報道・論説・解説においても、取り上げられるすべての人間が「神に愛された存在(イマゴ・デイ)」として扱われること。一方の立場だけを人格化し、他方を非人格化するような報道はしない。批判と非難の間に明確な線を引く。行為を批判することと、存在を攻撃することの違いを常に守る。

第二に、「複数の声への開かれ」を保つこと。世界の宗教的・霊的・文化的多様性は、神の創造の豊かさの表れだ。カトリックの視点から書かれながら、仏教者・神道の信者・プロテスタント・正教会の信者・神話愛好者・無宗教の霊的探求者の声に耳を傾け、彼らの洞察から学ぶ姿勢を持つこと。「わたしたちだけが正しい」という閉じた姿勢ではなく、「わたしたちはこれを信じる。あなたの中にも真理がある。共に探求しよう」という開かれた姿勢で語ること。

第三に、「現実の痛みから逃げない」こと。世界の暗さ・人類の罪・宗教の失敗・教会の傷――これらを直視せず美化することは「愛の告知」ではなく「愛の偽装」だ。ガブリエルは十字架の現実から逃げなかった。受肉の告知は「神が人間の苦しみの中に入る」という宣言であり、美しいものだけを語るメッセージではなかった。IHSガブリエルワールドニュースもまた、世界の現実の暗さを直視しながら、その暗さの中に光を見出すことを諦めない。

第四に、「証し(テスティモニア)の言語を大切にする」こと。命題よりも物語。定義よりも経験の共有。主張よりも問い。教義の解説より、愛を生きている人間の姿。このメディアは神学的正確さを犠牲にしないが、神学的正確さのために人間的温かさを犠牲にもしない。

「書かないこと」の倫理

何を書くかと同様に、何を書かないかの判断もまた、「愛の告知者」としての責任だ。

IHSガブリエルワールドニュースは、憎しみを煽るためには書かない。特定の人々を貶めるためには書かない。恐怖を武器として信仰を強制するためには書かない。政治的権力のための道具としては書かない。商業的利益のために信仰を消費財として扱うことはしない。「神の名において」行われる暴力・差別・排除を正当化するためには、絶対に書かない。

ガブリエルはマリアに「強制しなかった」。彼はただ告げ、彼女の応答を待った。IHSガブリエルワールドニュースもまた、読者に強制しない。説得はするが、強制しない。提案はするが、命令しない。ガブリエルのように「告げる」だけで、後は読者一人ひとりの自由な魂の応答に委ねる。


第七部:「愛を運ぶ者(ポルタトーレ・デッラモーレ)」としての使命の自覚

ガブリエルのように「去ること」の美しさ

ガブリエルの物語において最も印象的な場面のひとつは、使命完了後の「去り方」だ。ルカ1:38はこう記す。「天使は彼女を離れ去った(アペルテン・アプ・アウテース・ホ・アンゲロス)」。たった一文だ。告げた、受け取られた、去った。

ガブリエルは自分の告知の成功を誇らなかった。「わたしがマリアに告げた」という功績を主張しなかった。彼はただ「使者(アンゲロス)」として機能し、使命が果たされた瞬間に、潔く去った。言葉は届けられた。あとは神とマリアの間の出来事だ。使者が立ち続ける必要はない。

IHSガブリエルワールドニュースもまた、この「ガブリエルの去り方」を理想とする。私たちの記事が読者の心に届いたとき、私たちの役割は終わる。その後、読者が神とどう向き合うか、自らの信仰をどう深めるか、他者とどう関わるか――それは読者一人ひとりの固有の物語だ。私たちはその物語の作者ではなく、ただ「扉を開いた者」として静かに立つ。扉の向こうへ踏み出すのは読者自身だ。

「小さなメディア・大きな使命」という逆説

IHSガブリエルワールドニュースは今なお小さなメディアだ。世界の大手ニュースエージェンシーの規模には及ばない。予算も人員も組織も、ヴァチカン・ニュースのような規模には遠く及ばない。しかしこのメディアは「小ささ」を恥じない。むしろ「小さなメディア・大きな使命」という逆説の中に立つことを誇りとする。

ガブリエルが来たのはナザレという小さな村だった。ベツレヘムで生まれた救い主は飼い葉桶に寝かされた。最初の証人として選ばれたのは羊飼いだった。神の論理は「大きさ」「権力」「組織力」ではなく、「真実」「愛」「誠実さ」によって動く。小さくても、誠実であること。少なくても、本物であること。影響が限定的でも、届けるべき人に届くように語ること。IHSガブリエルワールドニュースはこの確信のもとに立つ。

「すでに述べられた」愛の継承

IHSガブリエルワールドニュースが運ぼうとする愛は、新しく発明されたものではない。それはすでに二千年前に、一人の大天使によってナザレの乙女に告げられ、彼女の「フィアット(こうなりますように)」によって受け入れられ、一人の子どもの誕生として世界に現れた。その愛は十字架において深められ、空の墓において勝利し、ペンテコステの炎において世界に広がった。二千年間、数え切れない殉教者・聖人・修道者・祈る者たちによって担われ続けてきた。

わたしたちは新しい愛を作り出すのではなく、すでに流れ続けているその愛の川に参加する。その川の水を、現代という時代の渇いている人々のもとへ運ぶ。これがガブリエルのしたこと――既に神の中にあった愛の計画を、それを知らなかったマリアのもとへ運んだこと――の継承だ。

愛はすでにある。神はすでに愛している。この現実を、それを忘れた者・知らなかった者・疑っている者のもとへ届けること。それがIHSガブリエルワールドニュースの使命の全体だ。


おわりに――ガブリエルの名のもとに、今、ここから

「ガブリエルよ、この幻をその人に悟らせよ」という神の声が聞こえたとき、ガブリエルは躊躇しなかった。「すみやかに飛んできて」ダニエルのもとに近づいた。「おめでとう、恵まれた方」とマリアに語りかけた。使命は使者を待たなかった。時が来たとき、ガブリエルは来た。

IHSガブリエルワールドニュースもまた、この「時が来たとき、来る」という姿勢で立つ。世界が愛を必要とするとき――今がその時だと感じている。世界が方向を失って戸惑っているとき――今がそのときだ。恐れが広がり、対立が深まり、宗教が沈黙を強いられているとき――今がそのときだ。

わたしたちは宣言する。IHSガブリエルワールドニュースは、大天使ガブリエルの名のもとに、「神の力(ゲブール・エル)」として世界に向けて語りかける。すべてのキリスト者に向けて「あなたたちは一つだ」と告げる。すべての宗教的伝統に向けて「あなたの中にも真理がある」と告げる。すべての人間に向けて「あなたは愛されている」と告げる。そして世界全体に向けて「恐れるな、愛はまだ生きている、神には何事も不可能ではない」と告げる。

これがわたしたちの使命だ。愛を運ぶこと。恐れを越えること。声を上げること。そして、告げ終えたとき、ガブリエルのように静かに去ること。

世界はキリストの光を必要としている。人類は、神と神の愛に達するための橋を必要としている。わたしたちはその橋の、ほんの小さな一つの石でありたい。それで十分だ。神には何事も不可能ではないのだから。

――IHSガブリエルワールドニュース創刊にあたって
IHS GABRIEL WORLD NEWS
IHSガブリエルワールドニュース編集部
IHSベツレヘム修道会 メディア部門


本記事の主な参照聖書箇所・神学的典拠
ダニエル書8章15-17節、9章21-22節(ガブリエルの旧約での登場)/ルカ福音書1章11-20節(ザカリアへの告知)、1章26-38節(マリアへの受胎告知)、2章10節(御使いの宣言)/ヨハネ福音書1章1-14節(ロゴスの受肉)、3章16節(神は世界を愛された)、20章19-23節(復活と赦しの権能)/エフェソ書4章5節(一つの主・一つの信仰・一つの洗礼)/コリント第一書簡13章(愛の賛歌)、5章7節(過越の小羊)/ヨハネ第一書簡4章8節(神は愛である)/クルアーン2章97節(ジブリールの役割)/カトリック教会のカテキズム(1992年)第328-336項(天使論)、第1113-1134項(秘跡の基礎)/教皇レオ14世 就任スピーチ「神はわたしたちを愛してくださいます」(2025年5月8日)

IHS GABRIEL WORLD NEWS ― IHSガブリエルワールドニュース
世界の宗教・信仰・霊性の動向を普遍的な愛の視座から伝える国際宗教ニュースメディア
IHSベツレヘム修道会 メディア部門 / From Japan to the World, with Love

ベツレヘム修道会
ベツレヘム修道会https://www.xmf.jp
IHSベツレヘム修道会(愛のベツレヘム修道会)は、日本を発祥とする独立系修道会である。バチカン(ローマ・カトリック教会)の公認を持たない旧カトリック系・独立教会系の流れに属し、アメリカ合衆国の宗教法人として正式に法人登録された国際的宗教団体である。 本修道会の最大の特徴は、従来の修道院が担ってきた典礼・奉仕・観想という枠組みに加え、「非文化型・宗教型コンテンツ制作」という独自の使命を中核に据えている点にある。文化活動や芸術振興を目的とする一般の団体とは根本的に性格を異にし、あくまでも宗教的信仰と神への奉仕を動機とした「献作・奉納」を活動の軸とする。 具体的には、PC・DAWを用いた作曲・編曲・宗教音楽制作、およびデジタル作画による聖画・神社絵画・教会美術の制作を行い、それらを他の修道会・教会・寺院・神社に対して無償で寄付・奉納する「献作型藝術推進」を実践する修道院である。制作された作品は販売や文化的発信を一義的な目的とせず、神のために作られ、神の場所へと届けられることを本旨とする。 日本という土壌が持つ固有の宗教的包容性――神道・仏教・キリスト教が長い歴史の中で共存してきた稀有な宗教的文化圏――を基盤とし、キリスト教・仏教・神道の別を問わず、あらゆる宗教的共同体への藝術的奉仕を行うことができる点において、本修道会は世界に類を見ない独自の立場を占めている。この使命は、イタリア・フランス・スペイン・アメリカ・中国など、それぞれの国が背負う宗教的・政治的・文化的事情により、他国の修道会には担い得ないものである。 IHSベツレヘム修道会は、宗教の危機を文化によって解決しようとする潮流に対して明確に一線を画し、「宗教は宗教によってのみ支えられる」という信念のもと、現代デジタル技術を神への奉仕のために用いる、日本発・世界向けの献作型藝術推進修道院として、その歩みを続けている。

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ウィリアム・ブレイディ大司教の遺品について -セントポール大聖堂のミサ典書と、バチカン公会議前夜の記憶

ウィリアム・ブレイディ大司教の遺品について セントポール大聖堂のミサ典書と、バチカン公会議前夜の記憶 著者:マリア・ガブリエラ・セラフィナ はじめに——古い本屋の棚の前で 私の手元に、一冊の古いミサ典書がある。 それは日本のある古いアンティーク本屋で見つけたものだ。私たちがその店を訪れたのは、特別な目的があってのことではなかった。ただ古い本の間を、時間をかけてゆっくりと歩いていた。年月を経た紙の匂いがして、棚には見知らぬ言語の本が並んでいた。外国語で書かれた古い宗教書、旅行記、詩集、辞書の類いが、誰かに気づかれることもなく、静かに肩を寄せ合っていた。 そのような店だった。急いで入り、急いで出るような場所ではない。ゆっくりと、棚に沿って歩き、手を伸ばし、また元に戻し、また別の本を手に取る。そういう時間の流れ方をする場所だった。 その本を手に取ったとき、何かが胸の中で動いた。 それを言葉にしようとすると、どうしても言葉が滑る。感覚的なことは言葉にするのが難しい。ただ確かに、これは普通の古本ではないという静かな確信が、知識としてではなく、もっと内側の、言葉になる前の場所で生まれた。重さが違う、と思った。紙の厚さではなく、その本が持っている何かの重さが。 表紙を開くと、ラテン語と英語が並んで印刷されていた。 第二バチカン公会議以前のカトリックのミサ典書、Daily Missalだった。革の表紙は年月によって柔らかくなり、ページの縁は少し黄ばんでいた。しかしそれが逆に、この本が実際に誰かの手によって使われていたことを示しているように思われた。飾りとして棚に置かれていたのではなく、実際に祈りの場に持ち込まれ、礼拝のたびに開かれ、閉じられ、また開かれた本だということを。 そして内側のページに、署名があった。 ペトルス・カニシウス・ファン・リエルデ師の署名だ。 日付は1961年。 私はしばらく、その署名をただ見ていた。インクはわずかに褪せながらも、確かにそこに存在していた。ある人物が、ある日、ある場所で、この本にペンを走らせた。その事実が、インクの痕跡として今も残っている。 この本は、ウィリアム・オタウェル・イグナティウス・ブレイディ大司教の遺品だった。 アメリカの、偉大な大司教の遺品が、どのような旅路をたどって日本のこの古い本屋に流れ着いたのか、私には知るよしがない。しかし今それは私の手元にある。私、マリア・ガブリエラ・セラフィナが、この本を持っている。 一、ウィリアム・ブレイディ大司教という人物 ウィリアム・オタウェル・イグナティウス・ブレイディ。 この名前を声に出して読むと、重さがある。ウィリアムという洗礼名、オタウェルという珍しい中間名、イグナティウスという霊名——イエズス会の創始者聖イグナティウス・デ・ロヨラへの敬意を示す名——そしてブレイディというアイルランド系の姓。それぞれの名前が、その人物の出自と信仰の系譜を静かに物語っている。 彼は1899年2月1日、マサチューセッツ州フォールリバーで生まれた。 フォールリバーは工場の町だった。十九世紀の後半から二十世紀の初頭にかけて、ここには世界中から労働者が集まり、繊維産業の中心地として活気にあふれていた。アイルランド系、ポルトガル系、フランス系カナダ人、ポーランド系、様々な出身の人々が、それぞれの言語と宗教と食文化と思い出を持ちながら、同じ工場の煙の下で暮らしていた。そのような移民の街において、カトリックの教会は単なる礼拝の場所ではなかった。教会は共同体の核だった。週に一度ミサに集まることで、人々は自分がどこから来て、何を信じ、何のために生きているのかを確認した。 そのような環境の中に、ウィリアム・ブレイディは生まれた。 父はジョン・J・ブレイディ、母はグラディス(旧姓ダヴォル)。兄のルイス、妹のレオノラと共に育った。彼はB.M.C.ダーフィー高校に通い、最終学年には年鑑の編集者を務めた。この小さな事実が、彼の人物像についての何かを伝えている。文章を編む仕事、記録を整える仕事、共同体の歴史を言葉として残す仕事への、自然な親しみがあったのだろう。それは後の彼の神学的な営みと、どこかで深く繋がっているように思われる。 司祭への道を決意した彼は、1916年にメリーランド州カトンズヴィルの聖シャルル学院に入学した。その後1918年にボルチモアの聖マリア神学校へ、1920年にはワシントンD.C.のカトリック大学神学部へと進んだ。学びの旅が続いた。一つの場所に留まらず、移動しながら、より深い知識と霊的な成熟を求めながら。 1923年12月21日、彼はフォールリバー教区のために司祭に叙階された。叙階を行ったのはダニエル・フランシス・フィーハン司教だった。その日付を私は静かに受け取る。1923年12月21日、冬至に近い日。最も夜の長い季節に、一人の青年が司祭として新たに生まれた。 叙階の後、教区は彼を再びカトリック大学へ送り、1924年に神学学士号を取得させた。そして同年、彼はローマへと渡る。聖トマス・アクィナス教皇立大学でさらなる学びを続けるために。 ローマでの学びは二年間続いた。 1926年、彼は神学博士号を最優等(summa cum laude)で取得した。この「最優等」という言葉が示すのは、単に優秀だったということではない。それは、彼がその学びに全力を注いだということだ。ローマという場所で、何世紀もの神学の蓄積と向き合いながら、妥協なく深く掘り下げた証しだ。 ローマを離れた彼は、ミネソタ州セントポールの聖パウロ神学校で道徳神学と牧会神学の教授職に就いた。 教授という職は、知識を持っているだけでは務まらない。知識を人に伝える能力が必要だ。抽象的な神学の概念を、人が実際の生活の中で信仰を生きるための言葉に翻訳する能力が。ブレイディはその働きを、七年間にわたって続けた。そして1933年、彼は聖パウロ神学校の学長となった。 学長としての六年間は、単なる管理職の年月ではなかったはずだ。若い司祭候補生たちの信仰の形成に関わる、深い責任を伴う歳月だった。彼らがどのような心の土台の上に立って神に仕えるか、そのことに深く関わる働きだった。 1939年6月10日、教皇ピウス12世はウィリアム・ブレイディをシウクスフォールズ司教に任命した。 それは南ダコタ州の広大な教区だった。大平原の広がる土地で、人々は農業を営み、牧場を経営し、広く散らばって暮らしていた。一人の司教が担うには、地理的にも霊的にも大きな場所だった。しかし彼はその働きを、1939年から1956年まで、十七年にわたって続けた。 1939年8月24日、彼はミネソタ州セントポールの聖パウロ大聖堂で司教に叙聖された。叙聖を行ったのはジョン・グレゴリー・マレー大司教だった。この名前を記憶しておいてほしい。マレー大司教は後に、ブレイディの前任者として聖パウロ大司教区を率い、そしてブレイディはその後継者となる。人の縁というものは、いつも最初から予め組まれていたかのように、後から見ると見事な形をしている。 1956年6月16日、教皇ピウス12世はブレイディを聖パウロ大司教区の補佐大司教に任命した。そして同年10月11日、前任のマレー大司教が逝去すると、ブレイディは聖パウロ大司教に就任した。 セントポール大聖堂。 彼はそこへ帰ってきた。かつて神学を学んだ場所に。かつて叙聖を受けた場所に。今度は大司教として。人の一生の旅路というものは、しばしば円を描く。始まりの場所に戻ってきたとき、人はまったく異なる目でその場所を見る。同じ石の壁、同じ高い天井、同じステンドグラスから射し込む光——しかし自分は変わっている。より多くのものを見て、より多くのものを失い、より多くのものを愛した者として帰ってきている。 彼の在任期間は1956年から1961年まで。五年間だ。短いかもしれない。しかしその五年間の最後に、彼の名を語る上で決して外せない出来事が起きる。 二、1961年——バチカン公会議前夜の空気 1961年という年について、その意味をもう少し丁寧に記しておきたい。 第二バチカン公会議が正式に開幕したのは、1962年10月11日のことだ。教皇ヨハネ23世が召集したその公会議は、カトリック教会の歴史において最も重要な出来事の一つとして記憶されている。何百年も続いてきた典礼の形式が問い直され、教会と現代世界の関係が再定義され、他のキリスト教諸派との対話が本格的に始まり、信者が礼拝に参与する方法が根本的に変わった。ラテン語で行われていたミサが各国の言語で行われるようになり、司祭が会衆に背を向けて祭壇の前に立つのではなく、会衆に向かい合う形に変わった。 これらの変化を、良い変化と見る人もある。失われたものを惜しむ人もある。そのどちらも、それぞれの誠実さを持っている。私はここでその是非を論じたいわけではない。ただ、その変化がいかに根本的で、いかに大きなものだったかを確認しておきたい。 そしてその公会議の直前の年、1961年は、準備が最も重要な段階を迎えていた時期だった。 準備委員会の会議が続いた。どのような議題を公会議で取り上げるか。どのような方向性で議論を進めるか。何百年もの伝統をどのように受け継ぎ、どこを変えるか。そのような根本的な問いが、バチカンの会議室で、神学者たちの書斎で、司教たちの間で、交わされていた。 ブレイディ大司教は、この準備過程の相談役として任命されていた。具体的には、司教団と教区統治のための教皇委員会の相談役(コンサルター)としての役割を担っていた。それは単に名誉職ではなかった。公会議の方向性に実質的に関わる、責任ある立場だった。 彼がこの立場でバチカンを訪れたとき、ファン・リエルデ師と会い、このミサ典書に署名を受けた。 1961年という年。第二バチカン公会議が翌年に迫った、その前夜の年。教会が大きな変化の手前に立っていた年。何世紀も変わらなかったものが変わろうとしていた、あの緊張と期待と不安の入り混じった年に、この署名は書かれた。 そのことの重さを、私はこの本を手にするたびに感じる。 三、ミサ典書というものについて この本が何であるかについて、もう少し丁寧に記しておきたい。 Daily Missal、日常ミサ典書。 カトリックの典礼、特に第二バチカン公会議以前の「トリエント様式」と呼ばれる伝統的なラテン語ミサにおいて、信徒が礼拝に参与するために用いる書物だ。ミサの全ての部分——入祭唱から始まり、キリエ・エレイソン、グローリア、書簡と福音の朗読、信条(クレド)、奉献文、聖別の言葉、主の祈り、アニュス・デイ、聖体拝領唱、そして退祭唱まで——が、ラテン語原文と英語対訳で印刷されている。 「ラテン語原文と英語対訳が並記されている」という形式には、深い理由がある。 ラテン語は普遍言語だった。どの国の教会でも、同じ言葉で同じミサが捧げられる。アメリカでも、イタリアでも、日本でも、アフリカでも、フィリピンでも、同じラテン語の言葉が空中に響く。信者たちはそれぞれ自分の国の言葉を日常語として使うが、神に向かって礼拝を捧げるとき、すべての人が一つの言語を用いる。これは普遍性の神学だ。教会が「カトリック(普遍的)」であることの、見える形での表現だ。時代と場所を越えて、一つの信仰が一つの言葉で表現されるということの。 しかし同時に、信徒が理解できなければ礼拝は形骸化する。意味のわからない言葉を聞きながらただ座っているだけでは、礼拝への真の参与にならない。だから英語対訳がある。司祭が祭壇でラテン語を唱えている間、信徒は手元の典書でその英語訳を追いながら、礼拝の意味を心の中で理解し、内側から参与する。 この形式そのものが、一つの神学的な立場を体現している。 普遍性と理解可能性。変わらないものと、時代に応じた説明。どちらか一方を切り捨てるのではなく、両方を同時に保持しようとすること。それがこの、ラテン語と英語の並記という形式の中に込められている。 そしてこの本は、第二バチカン公会議の前に印刷された。ラテン語ミサが変わる前の、最後の時代の産物だ。その意味で、この本は一つの時代の証人だ。ラテン語だけが礼拝の言語であった時代の、最後の光を封じ込めた証人だ。 このミサ典書には、礼拝の言葉が刻まれている。 Introibo ad altare Dei. I...

神は変わらない――人間と神が愛し合うということ – 全世界のクリスチャンへ

神は変わらない――人間と神が愛し合うということ 全世界のクリスチャンへ 筆者:マリア あなたに、一つの問いを投げかけることから始めたい。 あなたは今、神を愛しているか。 この問いは単純に見えて、実は恐ろしいほど深い。「はい」と即座に答えられる者は、その「はい」が本当に何を意味するかを、もう一度静かに問い直してほしい。「わからない」と答える者は、その正直さの中にすでに一つの祈りが宿っていることを知ってほしい。「いいえ」と答える者には、この文章を最後まで読んでほしいと、私はただそれだけを願う。 なぜなら、私がここで語ろうとしていることは、宗教的な義務の話でも、道徳的な教訓の話でもないからだ。私が語りたいのは、もっと根源的な、もっと恐ろしいほど個人的な一つの現実についてである。 それは、神と人間が愛し合うということだ。 一、まず誤解を解くことから 「神が人を愛する」という言葉は、現代においてあまりにも手軽に語られてきた。ステッカーになり、Tシャツに印刷され、SNSのプロフィールに添えられ、礼拝の最後の決まり文句として繰り返された。その結果、この言葉は恐ろしいほど軽くなった。語られるたびに磨耗し、今や多くの人の耳にほとんど届かない言葉になってしまった。 しかし「神が人を愛する」という現実そのものは、少しも軽くなっていない。それは太陽が地球を照らし続けるのと同じように、人がそれを信じようと信じまいと、感じようと感じまいと、認めようと認めまいと、ただ変わらずそこにある。言葉が磨耗しても、現実は磨耗しない。 そして私が強調しなければならないのは、この「愛し合う」という言葉である。 神が「一方的に」人を愛するというだけなら、それは温情ある支配者の話かもしれない。しかし聖書が語り、教会が二千年をかけて証言してきたのは、それとは全く異なる現実である。神は人間に、ただ愛されることを受け取るだけの存在であることを求めていない。神は人間が神を愛することを、熱望している。 これは対等な愛ではない。人間の神への愛と、神の人間への愛は、その深さにおいても、その完全性においても、比べるべくもなく異なる。しかしその非対称性にもかかわらず、神は人間の応答を、人間の愛を、求めている。要求するのではなく、熱望する。これが驚くべき現実である。 全能なる神が、被造物である人間の愛を「熱望する」。この事実の前で、私たちは立ち止まらなければならない。 二、これは恋愛ではない ここで明確にしなければならないことがある。 私が語る「神と人間の愛」は、恋愛ではない。 現代において、「愛」という言葉は多くの場合、感情的な興奮、性的な引力、ロマンティックな憧れと同義として使われる。愛は「感じるもの」であり、「落ちるもの」であり、「条件が整った時に生まれるもの」として理解されている。そしてその感情が薄れた時、愛は「終わった」とみなされる。 しかし神と人間の間の愛は、この意味における愛とは本質的に異なる。 神の愛(ギリシア語でアガペー)は、感情を基盤としない。それは条件によって変動しない。それは相手の魅力に依存しない。それは時間とともに薄れない。それは裏切りによって消えない。アガペーは選択であり、存在の在り方であり、意志の根底から発する方向性である。神はあなたを愛することを「感じている」のではなく、神はあなたを愛することにおいて「ある」のだ。 また、これは友人の愛でもない。 友情(フィリア)は尊い。しかし友情には共通の関心、相互の利益、対等な関係という要素が伴う。神と人間の関係において、この種の対等性は存在しない。神は人間の「友人」であるが、それは比喩的な意味においてであり、文字通りの対等な関係性においてではない。ヨハネによる福音書においてイエスは弟子たちを「友」と呼んだ(ヨハネ15:15)。しかしそれは直前に「あなたがたがわたしの命じることを行うなら」という言葉と結びついており、従者と主人という本質的な非対称性を前提とした上での「友」という言葉である。 では神と人間の愛とは何か。 それは、被造物と創造主の間に生じる、比類なき親密さである。親と子の愛に最も近い何かであるが、それをも超える。夫と妻の愛に最も近い何かであるが、それをも超える。教会の神秘的な神学の伝統はこの愛を「神秘的な合一」(unio mystica)と呼び、神が人間の魂の最も深い場所において親しく交わることとして描写した。アビラのテレサは「霊魂の城」の最も内奥の部屋で神との合一が起こると語った。十字架のヨハネは「愛の生きた炎」として、神が魂を変容させる体験を詩に記した。 これらは比喩ではあるが、単なる比喩ではない。それらは、言語が限界に達するところで、言語の限界を超えた現実を指し示す指として機能している。 三、神は変わらない 私が最初に語りたいことの核心はここにある。 神は変わらない。 これは神学的な命題であると同時に、生きた信仰の経験的な告白である。神の不変性(immutabilitas Dei)は、カトリック神学の根本的な属性の一つとして定義されてきた。しかしここで私が語りたいのは、抽象的な神学ではない。 神の不変性が意味することは、愛における不変性である。 あなたが変わっても、神は変わらない。あなたが罪を犯しても、神の愛は変わらない。あなたが神から顔を背けても、神があなたを見つめる視線は変わらない。あなたが信仰を失っても、神の信実は変わらない。あなたが死んでも、神の愛はあなたを追い続ける。これは脅迫ではない。これは慰めである。 詩篇の作者は言った。「主よ、あなたは私を調べ、知っておられます。座るのも立つのも知り、私の考えを遠くから読み取られます」(詩篇139:1-2)。これは監視の言葉ではない。これは親密さの言葉である。神は逃げ切れない監視者ではなく、どこにいても見出してくださる愛する者として描かれている。詩篇の同じ章の後半で詩人は「どこへ行けばあなたの霊を離れ、どこへ逃げればあなたの顔を離れることができるでしょう」と語るが、その問いの背後にあるのは恐怖ではなく、逃げきれない愛への降伏の喜びである。 また預言者エレミヤを通じて神は言われた。「わたしはあなたを永遠の愛をもって愛してきた。それゆえ、わたしはあなたに誠実であり続ける」(エレミヤ31:3)。「永遠の愛」――それは時間の外側にある愛であり、始まりを持たず終わりを持たない愛であり、人間の応答いかんに関わらず持続する愛である。 これが「神は変わらない」ということの具体的な意味である。神は今もこの瞬間も、あなたを愛している。あなたが最後に神を思った時から何年経っていても、あなたが何をしてきたとしても、あなたが今どこにいるとしても、神はあなたを愛している。それも、冷めた親切心としてではなく、熱望するほどの愛として。 四、どの時代においても変わらず この神の愛は、特定の時代の特定の人々に向けられたものではない。 旧約聖書の時代に、神はイスラエルの民を愛した。しかしそれは、イスラエルだけを愛し、他を愛しなかったということではない。神はイスラエルを通じて、全人類に向けた愛の計画を実行しようとしていた。 新約聖書において、神は御子イエス・キリストという形で、人類への愛を最も直接的な形で啓示した。「神はその独り子をお与えになったほど、世を愛された」(ヨハネ3:16)。この「世」という言葉は限定されていない。特定の民族でも、特定の宗教的背景を持つ者でも、特定の道徳的基準を満たす者でもない。「世」――それはすべての人間を意味する。 そして今、二十一世紀のこの時代においても、神の愛は変わらない。テクノロジーが変わった。社会の構造が変わった。人々の価値観が変わった。信仰を取り巻く文化的環境が激変した。しかし神は変わらない。神の愛は変わらない。 現代において多くの人々は「神がいるとしたら、こんな世界を見てどうして黙っているのか」と問う。これは誠実な問いである。しかしこの問いは、神の沈黙を神の不在や無関心の証拠とする前提に立っている。神の沈黙は、しかし、神の愛の欠如を意味しない。親が子供の転倒を手で防がないことが、子供の成長のために必要な時があるように、神の「見守る沈黙」は愛の欠如ではなく、愛の深さを示す場合がある。 また、歴史の惨禍の中で「神はどこにいたのか」という問いも、誠実に向き合わなければならない。答えは簡単ではない。しかし一つだけ確かに言えることがある。神は惨禍の中で人間を捨てていたのではない。神は苦しむ者と共にあった。イエス・キリスト御自身が、拷問と処刑という人類の最も残酷な暴力の犠牲者であった。神は苦しみの外から眺めているのではない。神は苦しみの中に入ってきた。これがキリスト教の受肉信仰の核心である。 五、神が熱望するということ 全能の神が、何かを「熱望する」。 この表現は不思議である。熱望するということは、まだ持っていないものを強く望むということだ。全てを持つ神が、熱望するとはどういうことか。 神学的に言えば、神はあなたの愛を「必要としている」わけではない。神は完全な存在であり、人間の愛がなくとも神の存在は完全である。しかし神は、あなたの愛を望む。これは必要から発する望みではなく、愛から発する望みである。 この区別は重要だ。必要から求めることは、欠如から来る。しかし愛から求めることは、豊かさから来る。親が子供の笑顔を必要としているわけではないが、子供の笑顔を深く望む。それは親の欠如を示すのではなく、親の愛の豊かさを示す。同様に、神があなたの応答を、あなたの愛を熱望するのは、神の欠如ではなく、神の愛の本質を示している。 愛は本質的に応答を求める。愛は一方通行では完成しない。これは神学的な命題であると同時に、人間的な経験において誰もが知っていることでもある。愛する者は、愛される対象が自らを向いてくれることを望む。神もまた、あなたが神を向くことを望んでいる。 しかしここに深い謎がある。神はあなたを強制しない。 神は全能であるにもかかわらず、人間の意志を強制しない。神はあなたの心の扉を外から壊すことができる。しかしそうしない。ヨハネの黙示録においてイエスは「見よ、わたしは扉の前に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて扉を開ける者があれば、わたしはその人のところに入って」(黙示録3:20)と語る。外から叩く。しかし開けるのは内側からでなければならない。神はあなたの「はい」を待っている。強制することなく、待っている。 これが、神の愛の恐ろしい謙虚さである。全能の神が、被造物の「はい」を待つ。これほど驚くべき現実が、他にあるだろうか。 六、人間が神を愛するということの具体的な現実 では、人間が神を愛するとはどういうことか。 まずはっきりさせたいのは、それは「いつも良い気分でいること」でも「常に熱心に祈ること」でも「道徳的に完全な生活を送ること」でもないということだ。これらは神への愛の結果として生じることがあるが、それらそのものが神への愛ではない。 神への愛は、まず「向くこと」から始まる。 向くこと。それだけでいい。あなたが今、どれほど遠く離れていると感じていても、どれほど長く神から目を背けてきたとしても、今この瞬間に「神よ」と内側で呟くだけで、あなたはすでに神を向いている。その呟きは、どれほど細くとも、神には届く。 放蕩息子の譬え(ルカ15:11-32)において、息子が「立ち上がって、父のところへ行こう」と決心した時、彼はまだ遠くにいた。しかし父親は走り寄った。神はあなたが完全に立ち直るまで待っていない。あなたが向こうを向いた瞬間に、神は走り寄る。 神への愛は次に、「留まること」へと深まる。 向くことは瞬間であるが、留まることは意志の持続的な行為である。それは毎朝祈りをもって一日を始めることかもしれない。それは困難の中で「それでも神よ」と言い続けることかもしれない。それは聖書の言葉を日々読み、その言葉が自分の中に入ってくることを許すことかもしれない。それは秘跡に与ることかもしれない。それは単純に、日常の仕事を神への奉仕として捧げる意識を持つことかもしれない。 神への愛は最終的に、「変容すること」へと向かう。 神を愛する者は、神に似ていく。これは私たちの努力によって達成されるのではなく、神との親密な関係の中で自然に、しかし確実に起こる変化である。日光を浴びる者が日焼けするように、神の愛の中に身を置く者は変容する。神の愛が人に似ていくのではなく、人が神の愛に似ていく。これが聖化(deificatio)と呼ばれる神秘的な過程である。 七、多くの人類が愛し合い歩くことを神は熱望している 最後に、最も重要な次元について語らなければならない。 神と人間の愛は、一対一の閉じた関係で完結しない。 神は一人一人の魂を愛する。しかし神の愛の目的は、一人一人の孤独な「神との合一」で終わらない。神は人類が共に愛し合い、共に歩くことを熱望している。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。 この「わたしが愛したように」という条件が重要だ。イエスが愛したのはアガペー、すなわち条件を持たず、見返りを求めず、相手の価値に依存しない愛である。あなたの隣人を、あなたが好きだから愛するのではなく、神があなたを愛したように愛する――これは人間の自然な能力を超えた要求である。 しかしこれは不可能な要求として投げつけられているのではない。神が先にそのような愛を注いでくださるから、あなたもその愛を他者に流すことができる、という恵みの連鎖として語られている。神の愛を受けた者は、神の愛を与える者となる。これが神の愛が世界に広がる方法である。 現代において、人々は深い孤独の中にいる。接続されているが繋がっていない。情報に溢れているが意味を見失っている。選択肢が増えるほど孤立が深まる逆説の中に、多くの人が閉じ込められている。 この時代にあって、神と人間の愛を知る者は、希望の運び手となる使命を持っている。あなたが神から受け取った愛を、あなたの隣の人に向ける時、そこに神の国の小さな現実が生まれる。家族との食卓で、職場での一言で、見知らぬ人への親切で、苦しむ者への傍らにいることで――神の愛は肉体を持った行為を通じて世界に流れ込む。 八、全世界のクリスチャンへ 私はこの文章を、全世界のクリスチャンに向けて書いている。 あなたがどの国にいても。どの言語を話しても。どの典礼の伝統に属していても。どれほど強い信仰を持っていても、どれほど揺らいでいても。 私はあなたに一つのことを伝えたい。 神は変わらない。 あなたが昨日神を忘れていたとしても、神はあなたを忘れていなかった。あなたが先週罪を犯したとしても、神の愛はその罪よりも大きかった。あなたが十年間教会から遠ざかっていたとしても、神はあなたを十年間待ち続けた。あなたが「もう神を信じられない」と思った瞬間にも、神はあなたを見ていた。 神の愛はあなたの信仰の強さに依存しない。神の愛はあなたの道徳的な完全さに依存しない。神の愛はあなたの感情の状態に依存しない。神の愛はただ、神がどのようなお方であるかに依存している。そして神は愛である(ヨハネ一書4:8)。 あなたに問いたい。 今日、あなたは神を向いているか。 完全に向く必要はない。完璧に向く必要はない。清らかな心で向く必要もない。ただ、今、この瞬間に、「神よ」と内側で言ってほしい。それだけでいい。 その小さな呟きを、神は待っていた。 結びに 神は今もあり続ける。どの時代においても変わらずあり続ける。 そしてその神は、あなたとの愛を熱望している。恋愛の意味でも、友人の意味でもない。もっと深い、もっと根源的な、魂の最も内奥において起こる、創造主と被造物の間の、比類なき親密さを。 この愛を知ることが、私には信仰の全てであると思っている。教義は重要だ。典礼は重要だ。倫理は重要だ。共同体は重要だ。しかしそれらはすべて、この一つの愛の現実から流れ出るべきものであり、この愛を深めるための器であるべきものだ。器のために器を磨くのではなく、愛のために器を用いる。 私たちは、愛のために生まれた。 神はその愛を与えるために、御子を世に送った。御子は十字架の上でその愛を示した。聖霊はその愛を私たちの心に注ぎ続けている。 あとはただ、受け取ること。そして返すこと。 それが全てである。それで十分である。 神の愛は変わらない。どうかあなたも、その愛に留まることができるように。 イエス・キリストの御名において。 マリア この文章は、全世界のすべてのクリスチャンへ、そして神の愛を探し求めるすべての人へ、愛と祈りをもって捧げます。

司教と司祭――聖なる位階の神秘、そして召命とは何か

司教と司祭――聖なる位階の神秘、そして召命とは何か キリストの体なる教会は、目に見える構造と目に見えない恵みとが不可分に結びついた神秘的な共同体である。その構造の中心に、叙階の秘跡(サクラメント)によって聖別された奉仕者たちが立っている。司教、司祭、助祭――この三つの位階は、単なる教会行政上の役職ではない。それらはキリスト御自身の司祭職、預言者職、王職という三つの務めに参与する、秘跡的かつ存在論的な現実である。 今日、多くのクリスチャンが「神父」「司祭」「司教」という言葉を混用したり、あるいはその区別を曖昧にしたまま信仰生活を営んでいる。だがこれらの言葉の背後には、二千年の神学的熟考と、使徒たちから連綿と受け継がれてきた生きた伝統がある。本稿では、カトリックの信仰に根ざしながら、これらの位階の本質、その違い、そして何よりも「召命」とはいかなるものであるかを、できる限り丁寧に、かつ深く掘り下げていきたいと思う。 一、叙階の秘跡――位階制度の根拠 カトリック教会において、叙階の秘跡(聖品聖事)は七つのサクラメントの一つとして数えられる。それは単に「任命」や「就任」を意味しない。叙階は、受ける者の霊魂に消えることのない刻印(character indelebilis)を与え、その人をキリストと特別な仕方で結びつける行為である。つまり叙階された者は、以前とは存在論的に異なる者となるのだ。 第二バチカン公会議の教義憲章『教会について』(ルーメン・ジェンティウム)は、この点を明確に述べている。「司教聖別は叙階の秘跡の充満を与える」(第二十一節)。これは、司教職が単に司祭職に「何かが加わった」役職ではなく、叙階の秘跡そのものの完全な実現であることを意味する。司祭職は、言わば司教職の参与的な形態として理解されるべきなのである。 この神学的前提を踏まえた上で、司教と司祭それぞれの本質へと進もう。 二、司教とは何者か――使徒継承の担い手 使徒継承という生きた連鎖 司教(ラテン語:episcopus、ギリシア語:episkopos=「監督者」)の最も根本的な特質は、使徒継承にある。主イエス・キリストは十二人の使徒を選び、ご自身の権威をもって彼らを世へと遣わされた(ヨハネ20:21)。その後、使徒たちは手を置くことによって(按手によって)後継者を立て、権威と恵みを伝達した。この霊的な連鎖は今日まで一度も途切れることなく続いており、これを使徒継承(Successio Apostolica)という。 司教は正当な叙階を通じて、この使徒継承の鎖に連なる者となる。従って司教は、単に教区を管理する行政長官ではない。彼はその教区において、キリストの使徒の後継者として、信仰の番人、秘跡の分配者、そして羊の群れの牧者という三重の務めを担う。 教える権威、聖化する権威、治める権威 カトリック神学は伝統的に、司教の務めを三つに分類する。 第一は教導権(munus docendi)、すなわち教える務めである。司教は自らの教区において信仰の真理を宣言し、伝達する責任を負う。彼は使徒の後継者として、教会が使徒たちから受け継いだ信仰の宝(depositum fidei)を保全し、解説し、次世代に伝える。教皇と一致して集会を形成する司教団が、信仰の問題において権威ある決定を下す時、そこに教会の無謬性の一側面が現れる。 第二は聖化権(munus sanctificandi)、すなわち聖化する務めである。司教は叙階の秘跡を授けることのできる唯一の通常の執行者である。司祭は叙階を授けることができない。また、司教は聖香油(クリスマ)を祝別し、信者の堅信を執行し、あらゆる秘跡を祝う充全な権限を持つ。 第三は治牧権(munus regendi)、すなわち治める務めである。司教は固有の司法権をもって教区を統治する。彼はその権限において、司祭や助祭を叙階し、教区内の霊的・物質的事柄を導く責任を持つ。 司教団と教皇 重要なのは、個々の司教が孤立した存在ではないことだ。すべての司教は、教皇を首とする司教団(collegium episcoporum)の一員として機能する。この司教団全体が、ペトロの後継者たる教皇の権威の下で、全世界の教会に対する最高権威を持つ。これが公会議の神学的根拠であり、「公同性」(カトリシティ)の制度的表れでもある。 三、司祭とは何者か――司教職への参与 司祭職の本質 司祭(ラテン語:presbyter、ギリシア語:presbyteros=「長老」)は、司教の協力者として、その権限の一部に参与する者である。教会の教えによれば、司祭は司教の「単純な協力者」ではなく、「位階において二番目の段位」にある者であり、司教聖別なしには司祭のみならず助祭の叙階もなし得ない。 司祭は司教から「ミサ聖祭を捧げる権限」「告解(ゆるしの秘跡)を執行する権限」「病者の塗油を授ける権限」「説教と教えの権限」を受ける。しかしこれらの権限はすべて、司教の権限に従属し、教区内での司教の監督の下に行使される。 ミサ聖祭における司祭の役割 カトリックの信仰において、司祭の最も核心的な役割はミサ聖祭(感謝の祭儀)において現れる。司祭は、キリストの位格において(in persona...

【世界特集】生成AIと宗教の関わり方――神の計画と愛のためにAIを正しく使うとはいかなることか | IHSガブリエルニュース

【世界特集】生成AIと宗教の関わり方――神の計画と愛のためにAIを正しく使うとはいかなることか | IHSガブリエルニュース IHS GABRIEL NEWS / IHSガブリエルニュース 世界の宗教・信仰・霊性の動向を普遍的な愛の視座から伝える国際宗教ニュースメディア 特集・神学論説 2026年 IHSガブリエルニュース編集部 【世界特集】生成AIと宗教の関わり方――神の計画と愛のためにAIを正しく使うとはいかなることか。そして、絶対に使ってはならない方法とは何か。 「物事の秩序は人格の秩序に従属すべきであって、その反対であってはならない。」――教皇庁教理省・文化教育省『アンティクア・エト・ノヴァ(Antiqua et Nova):人工知能と人間知能の関係に関する覚書』(2025年1月28日)第69項 「AIは人々をコミュニティ――クラブや友人、教会――へと導くべきであり、擬似的な親密さへ深く引きずり込むべきではない。」――マイケル・バゴット師(教皇庁立聖母使徒大学...