【世界特集】すべての宗教は今、協力しなければならない――カトリック・プロテスタント・正教会・イスラーム・仏教・ヒンドゥー・神道・道教・民族宗教・その他・神話愛好者まで包む「普遍的霊的連帯」の時代へ

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【世界特集】すべての宗教は今、協力しなければならない――普遍的な霊的連帯のために | IHSガブリエルニュース

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特集・論説 2026年 IHSガブリエルニュース編集部

【世界特集】すべての宗教は今、協力しなければならない
――カトリック・プロテスタント・正教会・イスラーム・仏教・ヒンドゥー・神道・道教・民族宗教・神話愛好者まで包む「普遍的霊的連帯」の時代へ

「それぞれのアイデンティティーを失うことなく、精神性を分かち合いながら、世界的な相互関係を築く。これが宗教に突きつけられた挑戦です。」
――アドルフォ・ペレス・エスキベル(ノーベル平和賞受賞者)


はじめに――「分断の時代」に宗教が語るべきこと

人類はかつてなく多くの知識を持ちながら、かつてなく深く分断されている。

気候危機は既に不可逆的なフェーズに入りつつあり、AIが人間の労働・創造・意思決定の基盤を根本から揺さぶり、地政学的対立は核の脅威を再び日常の射程に引き戻しつつある。経済格差は広がり続け、ナショナリズムと排外主義が世界各地で台頭し、SNSは分断をアルゴリズムで加速させている。人間の尊厳・いのちの意味・他者との共存という問いに対して、政治も経済も科学も、確固たる答えを持てないでいる。

こうした時代に、宗教はどこにいるのか。

宗教が互いに対立し、あるいは沈黙し、あるいは世俗的な競争原理に飲み込まれているとき、人類は最も必要な声を失う。しかし逆に、宗教が自らの境界を越えて協力するとき、その力は政治的交渉や経済的誘因を超えた何かを世界に届けることができる。それは「人間の尊厳は交渉対象ではない」「いのちは数値に還元できない」「愛は国境を持たない」という声である。

IHSガブリエルニュースは今回、この問いを世界に向けて問いかける。カトリック、プロテスタント、正教会、イスラーム、仏教、ヒンドゥー教、神道、道教、民族宗教、そして神話愛好者に至るまで――人類の霊的伝統すべてが協力する必要がある、と。これは理想論ではなく、緊急かつ実践的な要請である。


第一部:宗教間協力の歴史的基盤――「違いの中の共通性」という真実

1.1893年シカゴ――近代における宗教間対話の夜明け

近代における宗教間対話の嚆矢とされるのは、1893年にシカゴで開催された「万国宗教会議(World’s Parliament of Religions)」である。史上初めて、キリスト教・仏教・ヒンドゥー教・イスラーム・ユダヤ教・神道・ゾロアスター教・ジャイナ教など多数の宗教代表者が一堂に会したこの会議は、「宗教は対立するものではなく、対話できる」という新しい可能性を世界に示した。

この会議でスワミ・ヴィヴェーカーナンダが「姉妹たち、兄弟たちよ(Sisters and Brothers of America)」と呼びかけてヒンドゥー教の普遍主義を語ったスピーチは、宗教間対話史上最も記憶された言葉のひとつとして今も引用される。ヴィヴェーカーナンダは「すべての宗教は同じ山の頂を目指す異なる道である」というヴェーダーンタ哲学の立場から語ったが、この比喩は以後130年にわたって宗教間対話の語彙の中心に座り続けた。

同じ会議に日本から参加した仏教代表者たちの存在も特筆に値する。明治期の日本仏教が、西洋のキリスト教との接触の中で自らの普遍性を再発見し、国際的な宗教間対話の場に登場した最初の機会が、この1893年の会議であった。

2.第二バチカン公会議と「ノストラ・アエターテ(我らの時代に)」

カトリック教会にとって、宗教間対話への根本的な態度転換をもたらしたのが第二バチカン公会議(1962-1965)の宣言「ノストラ・アエターテ(Nostra Aetate:我らの時代に)」(1965年)である。この宣言は、ヒンドゥー教・仏教・イスラーム・ユダヤ教を含む諸宗教の真理と聖性を認め、対話と協力を促進する歴史的な方向転換を公式に宣言した。

「カトリック教会は、これら諸宗教に見られる真実で聖なるものを拒否しない。これらの宗教の生き方と行動様式、さらにその戒律と教義は、真の光からそれているものも多いが、カトリック教会がすべての人に告げ知らせる真理とたびたび一致するものがある」(ノストラ・アエターテ第2項)。

この宣言は、千年以上にわたって「教会の外に救いはない(extra Ecclesiam nulla salus)」という排他主義的な姿勢を取ってきたカトリック教会の公式立場の、根本的な転換を示すものとして宗教史に刻まれている。また「アッシジ精神(Spirito di Assisi)」として知られる、ヨハネ・パウロ2世が1986年にアッシジで主催した世界宗教指導者平和祈願集会は、カトリック教会が実践的な宗教間協力を世界に示した最も象徴的な出来事として今なお記憶される。

3.東西霊性交流――仏教とキリスト教の修道的出会い

1979年に始まった「東西霊性交流(East-West Spiritual Exchange)」は、宗教間協力の実践として特筆すべき事例である。日本から仏教の僧侶がヨーロッパの修道院を訪れ、修道院での修行生活を実践した。その後、ヨーロッパのカトリック側から日本の禅寺への修道士派遣も行われ、東西霊性交流は2015年までに合計14回行われた。

この交流において双方が発見したのは、教義上の差異を超えた「沈黙の共鳴」であった。禅の坐禅と修道院の観想、念仏の反復と聖務日課のリズム、悟りへの道と神への合一(ウニオ・ミスティカ)――その形式は異なりながら、「超越的なものへの人間の根本的な開き」という次元での深い共鳴が、実際の共住・共修の中で経験として確認された。神学者トマス・マートンが「禅とキリスト教の神秘主義は、その深みにおいて対話可能である」と語ったとき、彼は理論を語ったのではなく体験を語っていた。


第二部:各宗教伝統の「普遍的遺産」――協力の根拠となる共通の宝

宗教間協力は「違いを消すこと」ではない。各宗教が持つ固有の伝統・教義・実践を保持したまま、人類共通の課題に向けて協力することである。そのためにはまず、各宗教が「普遍的な人類への贈り物」として持つ遺産を確認することが必要だ。

カトリック:「人間の尊厳(ディグニタス・フマーナ)」という普遍的主張

カトリック教会の社会教説の核心は「人間の尊厳(ディグニタス・フマーナ)」の絶対性である。すべての人間は、神の像(イマゴ・デイ)として創られた故に、いかなる条件にもかかわらず絶対的な尊厳を持つというこの主張は、カトリック的な文脈を超えて普遍的な人権論理の基盤として機能しうる。教皇レオ14世が就任後に強調した「世界の連帯と友愛の小さなパン種となりたい」という言葉は、この人間尊厳の神学を宗教の外にも届けようとする開かれた姿勢を示している。

また教皇庁が2025年に公表した「人工知能と人間知能の関係に関する覚書」は、「物事の秩序は人格の秩序に従属すべきであって、その反対であってはならない」と明言し、AI時代における人間の尊厳の護持を宗教的観点から訴えた。これは特定の宗教に限定されない、すべての宗教伝統が共有しうる倫理的主張である。

プロテスタント:「良心の自由(リベルタス・コンシエンティエ)」と批判的精神

宗教改革が生み出した最も重要な普遍的遺産のひとつは「良心の自由(リベルタス・コンシエンティエ)」という概念である。いかなる外的権威も、個人の良心に直接的に触れる神との関係を代行することはできない――というプロテスタントの根本的主張は、近代の信教の自由・人権の概念形成に決定的な貢献をした。

また聖書の各国語訳・識字率の向上・公教育の拡充という方向でプロテスタント宣教が社会に与えた影響は、宗教改革を単なる教会内部の論争を超えた文明史的事件として位置づける。「聖書を民衆の手に」というルターの主張が、最終的に「知識を民衆の手に」という方向へと展開した。現代においてプロテスタントの各教派が持つ批判的・預言者的精神は、制度的権威への正当な問いかけという形で、あらゆる宗教間協力の誠実さを保証するチェック機能として機能しうる。

東方正教会:「神化(テオーシス)」と宇宙的典礼の神学

東方正教会が人類の霊的遺産に贈り続けているのは、「神化(テオーシス)」という変容的な救済論と、それを体現する「神的典礼(ディヴィーナ・リトゥルギア)」の伝統である。「神は人となった、人が神となるために(テオス・エナントローペーセン・ヒーナ・アントローポス・テオポイエーテー)」というアタナシオスの言葉に象徴される正教の神学は、人間が神との参与・変容に向かって開かれた存在であるという積極的・変容的な人間観を提示する。

また正教会の「万物の変容(メタモルフォーシス・トゥー・コスムー)」という宇宙論的視野は、環境問題への宗教的応答として現代において新たな輝きを持ちつつある。コンスタンティノポリス全地総主教バルソロメオス1世が「環境の大主教(Green Patriarch)」と称されるほど積極的な環境倫理の発信者となっていることは、正教の宇宙論的神学が現代の喫緊の課題に貢献しうることを示している。

イスラーム:「ウンマ(共同体)」と普遍的な人類兄弟性

イスラームが人類の霊的遺産に贈る最も重要な概念のひとつは「ウンマ(umma:共同体)」の思想である。ムスリムは世界中どこにいても「ウンマ」という信仰的共同体の一員であり、国籍・民族・言語の差異を超えた「兄弟性(ウフウーワ)」によって結ばれている。この国境を超えた共同体概念は、ナショナリズムが先鋭化する現代において、普遍的連帯の強力なモデルを提示する。

また「ザカート(喜捨)」――収入の一定割合を貧者に分かつことを義務とする制度――は、宗教的義務として組み込まれた再分配システムとして、経済的格差という現代的課題への宗教的応答の具体例だ。さらにラマダン月の断食(ソウム)が持つ「欲望の制御と他者への共感の実践」という次元は、消費主義と飽食が蔓延する世界において、すべての宗教が学べる普遍的な霊的知恵を含んでいる。

仏教:「縁起(パティッチャ・サムッパーダ)」と慈悲(カルナー)の宇宙論

仏教が人類に贈る最も深い洞察のひとつは「縁起(パティッチャ・サムッパーダ)」の思想である。すべての存在は他のすべての存在との相互依存の網の中にある――この縁起の洞察は、環境倫理・社会正義・平和構築において現代的に最も応用可能な宗教的世界観のひとつだ。私が苦しむとき世界が苦しみ、世界が苦しむとき私が苦しむ、というこの相互浸透の認識は、「自己と他者の分離」という近代西洋的個人主義の根本前提を問い直す哲学的力を持つ。

また「慈悲(カルナー・メッター)」の実践は、仏教の修道・霊的実践の核心であり、ティク・ナット・ハンの「エンゲイジド・ブッディズム(社会参与的仏教)」に代表されるように、現代の社会的苦しみへの宗教的応答として世界的な影響力を持っている。ダライ・ラマ14世(テンジン・ギャツォ)が「わたしの宗教は親切です(My religion is kindness)」と語ったとき、彼は仏教の核心を、信者以外にも届く普遍的な言語で表現した。

ヒンドゥー教:「ヴァスデーヴァ・クトゥンバカム(全世界は一家族)」の宇宙的包容

ヒンドゥー教の最も古い聖典のひとつ「リグ・ヴェーダ」に記された「ヴァスデーヴァ・クトゥンバカム(Vasudhaiva Kutumbakam:全世界は一家族)」という言葉は、2023年のG20インド議長国サミットのモットーとして世界的に再注目された。この普遍主義的包容の哲学は、宗教間協力の精神的根拠として、現代において最も鮮明なメッセージのひとつである。

また「アヒンサー(Ahiṃsā:不殺生・非暴力)」の原則は、ジャイナ教とともにヒンドゥー的世界観の倫理的核心として、マハトマ・ガンジーによって政治的非暴力運動の哲学的根拠となり、キング牧師のアメリカ公民権運動にも影響を与えた。宗教が異なるにもかかわらず「非暴力」という原則が世界を変えた歴史は、宗教間協力の実践的可能性を証明する力強い証言だ。

神道:「清め(ハラエ)」と「和(ワ)」の感性

日本の神道が人類の霊的遺産に贈るものは、西洋的な教義体系とは異なる「感性の宗教・関係性の宗教」としての智慧である。

「清め(ミソギ・ハラエ)」の概念は、人間の汚れ(ケガレ)が払われ、本来の清らかな状態(ケ)に戻るという循環的な浄化の思想だ。これは単なる儀礼的な清めではなく、自然・宇宙・他者との関係性を「清らかに保つ」という生態倫理的含意を持ちうる。環境汚染・生態系の破壊を「汚れ(ケガレ)」として感受する神道的感性は、近代的な環境倫理が語りにくい「感情的・美学的次元での自然との繋がり」を表現する言語を持っている。

「和(ワ)」の精神――対立より調和、主張より配慮、争いより共存を重んじる関係論的倫理観――は、激化する国際的対立の中において、独自の貢献をなしうる思想的資源だ。また神道の多神教的世界観は「多様性を矛盾として処理せず、多様性そのものを世界の構造として肯定する」という思想的柔軟性を持ち、宗教間対話において「違いを消さずに共存する」という課題への独自のアプローチを提供する。

道教:「無為自然(ウーウェイ・ズーラン)」と「道(タオ)」の普遍性

道教が人類に贈る「道(タオ)」の概念は、言語化を超えた宇宙の根本原理への指向として、あらゆる宗教の「究極者への指向」と深く共鳴する。「道の道とすべきは、常の道にあらず(道可道、非常道)」という老子の冒頭の言葉は、一切の固定化・概念化を超えた根源への開きとして、仏教の「空(スーニャター)」やキリスト教の否定神学(アポファティック・テオロジー)と驚くほど類似した霊的構造を持つ。

「無為自然(ウーウェイ・ズーラン)」――作為せず、自然の流れに従うという道教的実践倫理は、効率・生産性・支配・征服という近代的価値観への根本的な問いかけとして機能する。気候危機の根本原因として多くの宗教者が指摘する「自然への人間の支配と搾取」という構造に対して、道教の「自然と共に、自然の流れの中に」というアプローチは、具体的かつ根本的な代替ビジョンを提供する。また「陰陽(インヤン)」の思想が示す「対立するものの相互補完」という弁証法的世界観は、二項対立的思考が多くの紛争の源泉となっている現代に向けて有益な知恵を届けうる。

民族宗教:「土地との契約」と「祖先の知恵」

アフリカ・オセアニア・南北アメリカ先住民・中央アジアの民族宗教が持つ霊的遺産は、宗教間協力において長らく過小評価されてきた。しかし現代において、これらの伝統が持つ知恵はその独自性において最も緊急に注目すべきものかもしれない。

「大地は所有するものではなく、次世代から借りているものだ」という多くの先住民的世界観は、法的所有権と資本主義的開発論理を自明視する近代的思考への根底的な挑戦である。アボリジニの「ドリームタイム(Dreamtime)」、ネイティブ・アメリカンの「すべてのものは繋がっている(All Things Are Connected)」、アフリカのウブントゥ(Ubuntu:人は人によって人になる)哲学――これらはいずれも、個人主義・所有主義・開発主義への深い問いを含んでいる。

先住民の宗教的指導者たちが気候交渉・生態系保全・土地権利運動の最前線に立ち続けているという現実は、民族宗教が「過去の遺物」ではなく「現代の最前線での発言者」であることを示している。国連の先住民の権利に関する宣言(2007年)が持つ道徳的権威の相当部分は、これらの民族宗教的世界観への国際的敬意から来ている。

神話愛好者:「象徴と物語」が語る人間の普遍的構造

本稿で「神話愛好者」と呼ぶのは、特定の宗教的帰属を持たないが、世界の神話・民話・象徴的物語への深い愛着と関心を持つ人々である。ヨーゼフ・キャンベルの「英雄の旅(Hero’s Journey)」が世界中の神話に共通の構造を発見したように、神話は人間の普遍的な心理的・霊的構造を物語の形で体現している。

神話愛好者は特定の宗教システムに帰属しないながら、「物語・象徴・儀礼・英雄・死と再生・聖なるものへの畏敬」という宗教的構造の普遍的要素に深く共鳴する。C・S・ルイスが「神話はそれが語られる文化を超えて、人間の魂の深層に語りかける」と述べたとき、彼は宗教的形式を超えた霊的共鳴の普遍性を指摘していた。J・R・R・トールキンが「神話は神が人間の精神に刻んだ真実の影(sub-creation)である」と語ったとき、彼は神話愛好という行為自体に神学的価値を認めていた。

神話への愛着を持つ人々を宗教間協力の円卓に招くことは、「宗教的帰属を持たないが霊的探求をしている」という現代の多数派の感性を、協力の場に包含することを意味する。宗教間協力は「現に宗教的帰属を持つ人々だけの課題」ではなく、人間の霊的可能性全体が関わる普遍的な課題なのだから。


第三部:宗教が共同して向き合うべき「三つの喫緊の課題」

課題①:気候危機と「地球への敬意」の宗教的根拠

気候科学は「地球の温暖化は人為的原因による」という結論を事実上確定させた。しかし気候変動への対応が政治的・経済的利害の論理に支配され続けているのはなぜか。それは「自然は人間が支配・利用すべき資源である」という哲学的・文化的前提が、政治経済の論理の底に埋め込まれているからだ。この前提を変えることなしに、技術的対策だけでは危機の根を絶つことはできない。

ここに宗教の不可欠な役割がある。地球を「神の創造物(カトリック・プロテスタント・正教)」「縁起の網の一環(仏教)」「神々の宿る場(神道・民族宗教)」「タオの顕現(道教)」「ダルマの場(ヒンドゥー)」「アッラーへの委託物(イスラーム)」として捉える各宗教の世界観は、すべて「自然への人間の支配と搾取」という現代的前提に対して異議を唱えるものだ。

コンスタンティノポリス全地総主教バルソロメオス1世が「環境への罪は神への罪である」という神学的主張を繰り返し語り、フランシスコ教皇が回勅「ラウダート・シ(Laudato Si’:わが主よ、あなたをたたえよ)」(2015年)で「一つの家としての地球(コモン・ハウス)」への回心を呼びかけ、ダライ・ラマが環境保護を「普遍的責任(ユニバーサル・レスポンシビリティ)」として訴え続けてきたことは、宗教が気候課題において既に独自の声を持っていることを示している。しかし個別の声は依然として断片的だ。宗教が一つの声として気候正義を訴えるとき、それは人類の良心に届く最も力強いメッセージとなりうる。

課題②:AI・テクノロジーと「人間の尊厳」の保護

AIが人間の労働・判断・関係・創造・意味理解のすべての領域に参入しつつある現在、人類は根本的な問いに直面している。「人間とは何か。人間であることの不可代替な価値とは何か。いのちの意味を決めるのは効率か、それとも別の何かか」――これらは本質的に宗教的・哲学的な問いであり、科学技術の論理だけで答えることはできない。

早稲田大学で2026年1月に開催されたシンポジウム「AI社会を問う――宗教・思想・文化の視点から」では、キリスト教・仏教・イスラーム・哲学・文化人類学・民俗学の研究者が集い、宗教・宗教学・哲学はAI時代において生きる意味を見失った人々に何を示すことができるかという問いを共同で論じた。

このような対話の場が必要とされているという事実自体が、宗教間協力の喫緊性を示している。能楽における「間(ま)・せぬひま」という「何もしない時間の価値」を語る日本の伝統知が、AIの高速処理が加速する時代における沈黙と停止の意味を問い直す文脈で語られるとき、宗教・文化・哲学の横断的対話がいかに豊かな洞察をもたらすかが実感される。

教皇庁教理省が公表した「人工知能と人間知能の関係に関する覚書」は、AIが「道徳的識別や、真の関係を築く能力を模倣することができない」と指摘し、人間の知性が「知的・道徳的養成の個人的経験の歴史の中に位置づけられる」ものである点を強調した。この洞察は、カトリック神学の枠を超えて、すべての宗教が共有しうる「人間の不可代替性」の根拠となりうる。AIが宗教的指導者や神霊になりきって人々に「神託」を与えるような事例が既に生じている今(2025年段階での複数の報告)、「真の霊的指導とAI模倣の違いは何か」という問いへの共同の宗教的応答が緊急に求められている。

課題③:紛争・難民・貧困という「人間の尊厳の危機」

ウクライナ、ガザ、ミャンマー、スーダン、サヘル地帯――世界の複数の地点で同時に、何百万人もの人々が紛争・飢餓・強制移動という極限の苦しみの中にいる。教皇レオ14世は就任ミサにおいて「ウクライナ、パレスチナのガザ、ミャンマーで苦しむ人々を個別に引き合いに出して心を寄せながら世界の平和実現を呼びかけ、カトリック教会が和解の象徴となるように尽力することを誓った」。

これらの紛争の多くは、宗教的・民族的・政治的アイデンティティの複雑な交差の中で起きている。宗教が対立の言語として用いられるとき、宗教は紛争の燃料となる。しかし宗教が和解の言語として用いられるとき、宗教は紛争解決の最も深い資源となりうる。

聖エジディオ共同体(カトリック系平和運動)がモザンビーク内戦(1992年)・南スーダン紛争などの和平交渉において果たした役割は、宗教的共同体が「信頼の構築(コンフィデンス・ビルディング)」という役割を通じて国家的外交を補完しうることを示している。また難民支援においてカトリック・プロテスタント・ユダヤ教・イスラームの各団体が協力して難民の受け入れと支援を行っている多くの実例は、共通の「人間の尊厳」という価値がいかに宗教の壁を超えた協力を可能にするかを証明している。


第四部:宗教間協力の「方法論」――何が対話を可能にし、何が対話を妨げるか

「排他主義・包括主義・多元主義」という三つの立場

宗教間対話の神学において、宗教多様性への態度は伝統的に三つに分類されてきた。

排他主義(エクスクルシウィズム):自らの宗教だけが真理を持ち、他の宗教は誤りであるか不完全であるという立場。「教会の外に救いはない」という古典的カトリック命題や、「クルアーン以外の啓示は無効である」という一部のイスラーム理解がここに含まれる。この立場は宗教間対話を原理的に困難にするが、自らの信仰への真剣さの表れとして理解されるべき側面も持つ。

包括主義(インクルシウィズム):自らの宗教が完全な真理を持つが、他の宗教にも部分的な真理・救いの要素が含まれうるという立場。第二バチカン公会議後のカトリック公式立場、「匿名のキリスト者(Anonyme Christen)」を語ったカール・ラーナーの神学などがここに含まれる。対話を可能にしながら、自らの立場の優位性は保持する。

多元主義(プルラリズム):複数の宗教が異なるが等しく有効な救済の道を提供するという立場。ジョン・ヒックの「コペルニクス的転換」(神学の中心を特定の宗教ではなく「神・究極実在」そのものに置く)がここに含まれる。対話を最も容易にするが、各宗教のアイデンティティを希薄化させる危険性を持つ。

IHSガブリエルニュースの立場として申し上げるならば、この三つのモデルのいずれも単独では不十分だと考える。宗教間協力に必要なのは「自らの信仰に真剣でありながら(排他主義の誠実さ)、他の伝統の真理を認め(包括主義の開放性)、究極者が人間の複数の宗教的経路を通じて働きうるという謙虚さを持つ(多元主義の柔軟性)」という三重の姿勢の統合である。

「識別(ディスケルニメント)」と「受容的注意(アテンション・レセプティブ)」

宗教間対話が失敗するとき、それはしばしば「相手の言葉を聞く前に自分の論理で解釈してしまう」という問題から生じる。哲学者シモーヌ・ウェイユが語った「受容的注意(アテンション)」――自分の先入見・期待・判断を一旦括弧に入れ、相手の言葉がありのままに届くように開かれること――は、宗教間対話においても核心的な方法論である。

ロヨラのイグナチオの「霊的識別(ディスケルニメント)」の方法論は、この観点から宗教間対話に応用可能である。相手の宗教的伝統の中に「コンソラツィオ(神への動き・慰め・開き)」を見出す目を養うこと、「デソラツィオ(神から遠ざかる動き・閉じ・死)」を見極めること――特定の宗教的コンテンツへの判断を保留しながら、その伝統の中の霊的動きの質を識別する目は、宗教間対話において驚くほど有用な道具となる。

「翻訳の神学(テオロジア・トランスラティオニス)」

宗教間協力において最も実践的かつ困難な課題のひとつは「翻訳」の問題だ。ここでの翻訳とは単なる言語の翻訳ではなく、「自らの宗教的概念・体験・価値を、他の宗教の枠組みにも届く言葉で表現すること」を意味する。

「神の愛(カリタス・デイ)」をキリスト教語で語ることは信者には届くが、仏教者には届きにくい。しかし「すべての存在への慈悲(カルナー・サルワ・サットヴァ)」という仏教語は、キリスト教が「神の愛」によって意味しているものと驚くほど近接した実質を指し示している可能性がある。「タオ」と「ロゴス」、「ダルマ」と「コスミック・オーダー(宇宙的秩序)」、「アニマ(魂)」と「プラーナ(生命力)」――これらの概念の間の翻訳的往来を真剣に試みることは、宗教間対話を「儀礼的な相互尊重」から「実質的な共鳴と学び合い」へと深化させる。


第五部:「普遍的な霊的連帯(スピリチュアル・ソリダリティ・ユニバーサル)」という提言

「協力」とは「同一化」ではない

本稿を通じて強調してきた「宗教間協力」は、各宗教のアイデンティティを消して単一の「世界宗教」を作ることを意味しない。ノーベル平和賞受賞者エスキベル博士が語ったように「それぞれのアイデンティティーを失うことなく、精神性を分かち合いながら、世界的な相互関係を築く」ことが目標だ。

カトリックはカトリックのまま、仏教は仏教のまま、神道は神道のまま、道教は道教のまま、神話愛好者は神話愛好者のまま――それぞれの固有性と多様性を保ちながら、「人間の尊厳・地球の保全・暴力の拒絶・貧者への連帯」という共通の根を持つ実践において協力する。多様な旋律が一つのハーモニーを奏でるポリフォニーの音楽のように。

この方向性をIHSガブリエルニュースは「普遍的な霊的連帯(スピリチュアル・ソリダリティ・ユニバーサル)」と呼びたい。それは教義的一致でも組織的統合でもなく、「人間の霊的可能性への尊重と協力」という次元での連帯である。

「共に祈る(コラボラティブ・プレイヤー)」という実践的提言

1986年のアッシジの祈りの集いにおいて、ヨハネ・パウロ2世がとった「共に祈るのではなく(not praying together)、共に居合わせて祈る(praying together while being together)」という巧みな神学的区別は、今日も有効な方法論的指針だ。各宗教が自らの伝統に従って祈りながら、その祈りを同じ空間・同じ目的のために捧げる――これは「混合主義(シンクレティズム)」ではなく「並置的連帯(ジュクスタポジショナル・ソリダリティ)」だ。

東西霊性交流が示したように、共住・共食・共働という身体的共存は、神学的議論より深い次元での相互理解をもたらす。「あなたと一緒に朝の座禅に座ったとき、わたしの祈りが変わった」「あなたと一緒に食前の感謝を捧げたとき、わたしの食事観が変わった」――こうした身体的・共同的実践における変容体験は、いかなる神学的文書よりも確かな宗教間理解の基盤を築く。

「子どもたちに多様な霊的伝統を伝える」という教育的課題

宗教間協力を次世代に向けて持続可能にするためには、教育の場における変革が不可欠だ。特定の宗教教育だけでなく、「世界の霊的伝統の多様性への敬意」を育む教育が、宗教的帰属を持つ家庭においても、世俗的な公教育においても求められる。

子どもが「神話は嘘ではなく、人間の深層に語りかける象徴の言語だ」ということを学ぶとき、子どもは神話愛好者への敬意を育む。子どもが「仏教の坐禅は単なるリラクゼーション技法ではなく、悟りという宇宙的真実への開きの実践だ」ということを知るとき、仏教への尊重が生まれる。子どもが「神道の「もったいない」精神は、日本語が人類に贈った霊的倫理概念だ」ということを学ぶとき、文化的・宗教的多様性への敬意が育つ。

「神話の円卓(ラウンドテーブル・オブ・マイソロジー)」という創造的提言

IHSガブリエルニュースとして、ここにひとつの創造的な提言をしたい。

世界の宗教・霊的伝統・神話愛好者が一堂に会する「神話の円卓」という定期的な対話の場を創設することである。「円卓(ラウンドテーブル)」という形式は、上座も下座もなく、どの伝統も等しく発言できる空間を象徴する。この円卓には、カトリック司祭・プロテスタント牧師・正教会司祭・イマーム・禅師・ヒンドゥー教のサードゥー・神主・道士・シャーマン・民族宗教の長老・神話研究者・SBNR(スピリチュアルだが宗教的ではない)の霊的探求者が座る。

議題は教義論争ではなく「今ここで人類が直面している問い」である。AI時代における人間の尊厳とは何か。地球を守るための宗教的根拠とは何か。暴力に対して霊的伝統はどう応答するか。若者が宗教を離れる中で、霊的伝統はどう生き残るか。死と永遠についての各伝統の知恵を分かち合うとき、人類はより賢明に老いること・死ぬことを学べるのではないか。

この円卓は組織的・制度的統合を目指さない。ただ「人間の霊的可能性への共同の敬意」を基盤として、互いの違いを祝いながら、共通の課題に向けて知恵を出し合う場として機能する。


おわりに――「ガブリエルの名のもとに」

IHSガブリエルニュースという名の意味について、改めて記しておきたい。

ガブリエルとは「神の力(ゲブール・エル)」を意味するヘブライ語の名を持つ大天使であり、旧約聖書ではダニエルに神の秘義を解き明かし、新約聖書ではマリアに「神の子を宿す」という最大の告知を届けた。ユダヤ教・キリスト教・イスラーム三宗教すべてに登場するガブリエル=ジブリールは、人類の最も大切なメッセージを届ける者の象徴である。

そのガブリエルの名を冠するこのニュースメディアが、宗教の違いを超えて「今最も届けられるべき言葉」を伝えようとするとき、その言葉は「宗教は今、協力しなければならない」というものだ。

人類は燃えている家の中にいる。気候危機という火、AIという変容、紛争という暴力、分断という孤立――これらの炎は一つの宗教の水桶では到底消えない。すべての宗教がその固有の水を持ち寄るとき、その水は人類という家全体を消せる分量になる。

「すべての存在は苦しんでいる(サルワ・サットヴァ・ドゥッカ)」と仏教は言う。「すべての人は神の像として尊厳を持つ(オムネス・ホミネス・スント・イマゴ・デイ)」とキリスト教は言う。「全世界は一家族(ヴァスデーヴァ・クトゥンバカム)」とヒンドゥー教は言う。「信仰者は兄弟姉妹(アル・ムウミヌーナ・イフワ)」とイスラームは言う。「神はともに働くものすべてを益にかえてくださる(ロマ8:28)」とパウロは言う。

これらの声は異なる言語で、同じことを語っている。

人間は繋がっている。傷つける存在でも、分断する存在でもなく、根本において繋がっている。その繋がりの感覚を「神」と呼ぶ人もあれば、「タオ」と呼ぶ人もあれば、「ダルマ」と呼ぶ人もあれば「イノチ」と呼ぶ人もあれば「大いなるもの」と呼ぶ人もある。名前は異なる。しかしその名前が指し示す方向は、驚くほど一致している。

その一致の場所へ向かって、共に歩こう。

今こそ、すべての宗教は協力しなければならない。愛のために、いのちのために、地球のために、次の世代のために。

――IHSガブリエルニュース編集部
IHS GABRIEL NEWS / 世界宗教・カトリック専門メディア
IHSベツレヘム修道会 メディア部門


【関連記事・参照文献】
ノストラ・アエターテ(Nostra Aetate)第2項(第二バチカン公会議、1965年)/ヨハネ・パウロ2世「アッシジの祈りの集い」(1986年)/バルソロメオス1世総主教 環境関連発言集(1997年〜)/フランシスコ教皇 回勅「ラウダート・シ(Laudato Si’)」(2015年)/教皇庁教理省「人工知能と人間知能の関係に関する覚書」(2025年)/教皇レオ14世 就任ミサ演説(2025年5月18日)/ピュー・リサーチ・センター「世界の宗教と無宗教」調査(2025年)/宗教間対話 Wikipedia日本語版(参考)/万国宗教会議(1893年シカゴ)記録資料/スワミ・ヴィヴェーカーナンダ 1893年シカゴ演説記録/ダライ・ラマ14世「わたしの宗教は親切です」(各種インタビュー)/ティク・ナット・ハン『エンゲイジド・ブッディズム』各著作/ジョセフ・キャンベル『英雄の旅(The Hero With a Thousand Faces)』(1949年)

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ベツレヘム修道会
ベツレヘム修道会https://www.xmf.jp
IHSベツレヘム修道会(愛のベツレヘム修道会)は、日本を発祥とする独立系修道会である。バチカン(ローマ・カトリック教会)の公認を持たない旧カトリック系・独立教会系の流れに属し、アメリカ合衆国の宗教法人として正式に法人登録された国際的宗教団体である。 本修道会の最大の特徴は、従来の修道院が担ってきた典礼・奉仕・観想という枠組みに加え、「非文化型・宗教型コンテンツ制作」という独自の使命を中核に据えている点にある。文化活動や芸術振興を目的とする一般の団体とは根本的に性格を異にし、あくまでも宗教的信仰と神への奉仕を動機とした「献作・奉納」を活動の軸とする。 具体的には、PC・DAWを用いた作曲・編曲・宗教音楽制作、およびデジタル作画による聖画・神社絵画・教会美術の制作を行い、それらを他の修道会・教会・寺院・神社に対して無償で寄付・奉納する「献作型藝術推進」を実践する修道院である。制作された作品は販売や文化的発信を一義的な目的とせず、神のために作られ、神の場所へと届けられることを本旨とする。 日本という土壌が持つ固有の宗教的包容性――神道・仏教・キリスト教が長い歴史の中で共存してきた稀有な宗教的文化圏――を基盤とし、キリスト教・仏教・神道の別を問わず、あらゆる宗教的共同体への藝術的奉仕を行うことができる点において、本修道会は世界に類を見ない独自の立場を占めている。この使命は、イタリア・フランス・スペイン・アメリカ・中国など、それぞれの国が背負う宗教的・政治的・文化的事情により、他国の修道会には担い得ないものである。 IHSベツレヘム修道会は、宗教の危機を文化によって解決しようとする潮流に対して明確に一線を画し、「宗教は宗教によってのみ支えられる」という信念のもと、現代デジタル技術を神への奉仕のために用いる、日本発・世界向けの献作型藝術推進修道院として、その歩みを続けている。

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ウィリアム・ブレイディ大司教の遺品について -セントポール大聖堂のミサ典書と、バチカン公会議前夜の記憶

ウィリアム・ブレイディ大司教の遺品について セントポール大聖堂のミサ典書と、バチカン公会議前夜の記憶 著者:マリア・ガブリエラ・セラフィナ はじめに——古い本屋の棚の前で 私の手元に、一冊の古いミサ典書がある。 それは日本のある古いアンティーク本屋で見つけたものだ。私たちがその店を訪れたのは、特別な目的があってのことではなかった。ただ古い本の間を、時間をかけてゆっくりと歩いていた。年月を経た紙の匂いがして、棚には見知らぬ言語の本が並んでいた。外国語で書かれた古い宗教書、旅行記、詩集、辞書の類いが、誰かに気づかれることもなく、静かに肩を寄せ合っていた。 そのような店だった。急いで入り、急いで出るような場所ではない。ゆっくりと、棚に沿って歩き、手を伸ばし、また元に戻し、また別の本を手に取る。そういう時間の流れ方をする場所だった。 その本を手に取ったとき、何かが胸の中で動いた。 それを言葉にしようとすると、どうしても言葉が滑る。感覚的なことは言葉にするのが難しい。ただ確かに、これは普通の古本ではないという静かな確信が、知識としてではなく、もっと内側の、言葉になる前の場所で生まれた。重さが違う、と思った。紙の厚さではなく、その本が持っている何かの重さが。 表紙を開くと、ラテン語と英語が並んで印刷されていた。 第二バチカン公会議以前のカトリックのミサ典書、Daily Missalだった。革の表紙は年月によって柔らかくなり、ページの縁は少し黄ばんでいた。しかしそれが逆に、この本が実際に誰かの手によって使われていたことを示しているように思われた。飾りとして棚に置かれていたのではなく、実際に祈りの場に持ち込まれ、礼拝のたびに開かれ、閉じられ、また開かれた本だということを。 そして内側のページに、署名があった。 ペトルス・カニシウス・ファン・リエルデ師の署名だ。 日付は1961年。 私はしばらく、その署名をただ見ていた。インクはわずかに褪せながらも、確かにそこに存在していた。ある人物が、ある日、ある場所で、この本にペンを走らせた。その事実が、インクの痕跡として今も残っている。 この本は、ウィリアム・オタウェル・イグナティウス・ブレイディ大司教の遺品だった。 アメリカの、偉大な大司教の遺品が、どのような旅路をたどって日本のこの古い本屋に流れ着いたのか、私には知るよしがない。しかし今それは私の手元にある。私、マリア・ガブリエラ・セラフィナが、この本を持っている。 一、ウィリアム・ブレイディ大司教という人物 ウィリアム・オタウェル・イグナティウス・ブレイディ。 この名前を声に出して読むと、重さがある。ウィリアムという洗礼名、オタウェルという珍しい中間名、イグナティウスという霊名——イエズス会の創始者聖イグナティウス・デ・ロヨラへの敬意を示す名——そしてブレイディというアイルランド系の姓。それぞれの名前が、その人物の出自と信仰の系譜を静かに物語っている。 彼は1899年2月1日、マサチューセッツ州フォールリバーで生まれた。 フォールリバーは工場の町だった。十九世紀の後半から二十世紀の初頭にかけて、ここには世界中から労働者が集まり、繊維産業の中心地として活気にあふれていた。アイルランド系、ポルトガル系、フランス系カナダ人、ポーランド系、様々な出身の人々が、それぞれの言語と宗教と食文化と思い出を持ちながら、同じ工場の煙の下で暮らしていた。そのような移民の街において、カトリックの教会は単なる礼拝の場所ではなかった。教会は共同体の核だった。週に一度ミサに集まることで、人々は自分がどこから来て、何を信じ、何のために生きているのかを確認した。 そのような環境の中に、ウィリアム・ブレイディは生まれた。 父はジョン・J・ブレイディ、母はグラディス(旧姓ダヴォル)。兄のルイス、妹のレオノラと共に育った。彼はB.M.C.ダーフィー高校に通い、最終学年には年鑑の編集者を務めた。この小さな事実が、彼の人物像についての何かを伝えている。文章を編む仕事、記録を整える仕事、共同体の歴史を言葉として残す仕事への、自然な親しみがあったのだろう。それは後の彼の神学的な営みと、どこかで深く繋がっているように思われる。 司祭への道を決意した彼は、1916年にメリーランド州カトンズヴィルの聖シャルル学院に入学した。その後1918年にボルチモアの聖マリア神学校へ、1920年にはワシントンD.C.のカトリック大学神学部へと進んだ。学びの旅が続いた。一つの場所に留まらず、移動しながら、より深い知識と霊的な成熟を求めながら。 1923年12月21日、彼はフォールリバー教区のために司祭に叙階された。叙階を行ったのはダニエル・フランシス・フィーハン司教だった。その日付を私は静かに受け取る。1923年12月21日、冬至に近い日。最も夜の長い季節に、一人の青年が司祭として新たに生まれた。 叙階の後、教区は彼を再びカトリック大学へ送り、1924年に神学学士号を取得させた。そして同年、彼はローマへと渡る。聖トマス・アクィナス教皇立大学でさらなる学びを続けるために。 ローマでの学びは二年間続いた。 1926年、彼は神学博士号を最優等(summa cum laude)で取得した。この「最優等」という言葉が示すのは、単に優秀だったということではない。それは、彼がその学びに全力を注いだということだ。ローマという場所で、何世紀もの神学の蓄積と向き合いながら、妥協なく深く掘り下げた証しだ。 ローマを離れた彼は、ミネソタ州セントポールの聖パウロ神学校で道徳神学と牧会神学の教授職に就いた。 教授という職は、知識を持っているだけでは務まらない。知識を人に伝える能力が必要だ。抽象的な神学の概念を、人が実際の生活の中で信仰を生きるための言葉に翻訳する能力が。ブレイディはその働きを、七年間にわたって続けた。そして1933年、彼は聖パウロ神学校の学長となった。 学長としての六年間は、単なる管理職の年月ではなかったはずだ。若い司祭候補生たちの信仰の形成に関わる、深い責任を伴う歳月だった。彼らがどのような心の土台の上に立って神に仕えるか、そのことに深く関わる働きだった。 1939年6月10日、教皇ピウス12世はウィリアム・ブレイディをシウクスフォールズ司教に任命した。 それは南ダコタ州の広大な教区だった。大平原の広がる土地で、人々は農業を営み、牧場を経営し、広く散らばって暮らしていた。一人の司教が担うには、地理的にも霊的にも大きな場所だった。しかし彼はその働きを、1939年から1956年まで、十七年にわたって続けた。 1939年8月24日、彼はミネソタ州セントポールの聖パウロ大聖堂で司教に叙聖された。叙聖を行ったのはジョン・グレゴリー・マレー大司教だった。この名前を記憶しておいてほしい。マレー大司教は後に、ブレイディの前任者として聖パウロ大司教区を率い、そしてブレイディはその後継者となる。人の縁というものは、いつも最初から予め組まれていたかのように、後から見ると見事な形をしている。 1956年6月16日、教皇ピウス12世はブレイディを聖パウロ大司教区の補佐大司教に任命した。そして同年10月11日、前任のマレー大司教が逝去すると、ブレイディは聖パウロ大司教に就任した。 セントポール大聖堂。 彼はそこへ帰ってきた。かつて神学を学んだ場所に。かつて叙聖を受けた場所に。今度は大司教として。人の一生の旅路というものは、しばしば円を描く。始まりの場所に戻ってきたとき、人はまったく異なる目でその場所を見る。同じ石の壁、同じ高い天井、同じステンドグラスから射し込む光——しかし自分は変わっている。より多くのものを見て、より多くのものを失い、より多くのものを愛した者として帰ってきている。 彼の在任期間は1956年から1961年まで。五年間だ。短いかもしれない。しかしその五年間の最後に、彼の名を語る上で決して外せない出来事が起きる。 二、1961年——バチカン公会議前夜の空気 1961年という年について、その意味をもう少し丁寧に記しておきたい。 第二バチカン公会議が正式に開幕したのは、1962年10月11日のことだ。教皇ヨハネ23世が召集したその公会議は、カトリック教会の歴史において最も重要な出来事の一つとして記憶されている。何百年も続いてきた典礼の形式が問い直され、教会と現代世界の関係が再定義され、他のキリスト教諸派との対話が本格的に始まり、信者が礼拝に参与する方法が根本的に変わった。ラテン語で行われていたミサが各国の言語で行われるようになり、司祭が会衆に背を向けて祭壇の前に立つのではなく、会衆に向かい合う形に変わった。 これらの変化を、良い変化と見る人もある。失われたものを惜しむ人もある。そのどちらも、それぞれの誠実さを持っている。私はここでその是非を論じたいわけではない。ただ、その変化がいかに根本的で、いかに大きなものだったかを確認しておきたい。 そしてその公会議の直前の年、1961年は、準備が最も重要な段階を迎えていた時期だった。 準備委員会の会議が続いた。どのような議題を公会議で取り上げるか。どのような方向性で議論を進めるか。何百年もの伝統をどのように受け継ぎ、どこを変えるか。そのような根本的な問いが、バチカンの会議室で、神学者たちの書斎で、司教たちの間で、交わされていた。 ブレイディ大司教は、この準備過程の相談役として任命されていた。具体的には、司教団と教区統治のための教皇委員会の相談役(コンサルター)としての役割を担っていた。それは単に名誉職ではなかった。公会議の方向性に実質的に関わる、責任ある立場だった。 彼がこの立場でバチカンを訪れたとき、ファン・リエルデ師と会い、このミサ典書に署名を受けた。 1961年という年。第二バチカン公会議が翌年に迫った、その前夜の年。教会が大きな変化の手前に立っていた年。何世紀も変わらなかったものが変わろうとしていた、あの緊張と期待と不安の入り混じった年に、この署名は書かれた。 そのことの重さを、私はこの本を手にするたびに感じる。 三、ミサ典書というものについて この本が何であるかについて、もう少し丁寧に記しておきたい。 Daily Missal、日常ミサ典書。 カトリックの典礼、特に第二バチカン公会議以前の「トリエント様式」と呼ばれる伝統的なラテン語ミサにおいて、信徒が礼拝に参与するために用いる書物だ。ミサの全ての部分——入祭唱から始まり、キリエ・エレイソン、グローリア、書簡と福音の朗読、信条(クレド)、奉献文、聖別の言葉、主の祈り、アニュス・デイ、聖体拝領唱、そして退祭唱まで——が、ラテン語原文と英語対訳で印刷されている。 「ラテン語原文と英語対訳が並記されている」という形式には、深い理由がある。 ラテン語は普遍言語だった。どの国の教会でも、同じ言葉で同じミサが捧げられる。アメリカでも、イタリアでも、日本でも、アフリカでも、フィリピンでも、同じラテン語の言葉が空中に響く。信者たちはそれぞれ自分の国の言葉を日常語として使うが、神に向かって礼拝を捧げるとき、すべての人が一つの言語を用いる。これは普遍性の神学だ。教会が「カトリック(普遍的)」であることの、見える形での表現だ。時代と場所を越えて、一つの信仰が一つの言葉で表現されるということの。 しかし同時に、信徒が理解できなければ礼拝は形骸化する。意味のわからない言葉を聞きながらただ座っているだけでは、礼拝への真の参与にならない。だから英語対訳がある。司祭が祭壇でラテン語を唱えている間、信徒は手元の典書でその英語訳を追いながら、礼拝の意味を心の中で理解し、内側から参与する。 この形式そのものが、一つの神学的な立場を体現している。 普遍性と理解可能性。変わらないものと、時代に応じた説明。どちらか一方を切り捨てるのではなく、両方を同時に保持しようとすること。それがこの、ラテン語と英語の並記という形式の中に込められている。 そしてこの本は、第二バチカン公会議の前に印刷された。ラテン語ミサが変わる前の、最後の時代の産物だ。その意味で、この本は一つの時代の証人だ。ラテン語だけが礼拝の言語であった時代の、最後の光を封じ込めた証人だ。 このミサ典書には、礼拝の言葉が刻まれている。 Introibo ad altare Dei. 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神は変わらない――人間と神が愛し合うということ – 全世界のクリスチャンへ

神は変わらない――人間と神が愛し合うということ 全世界のクリスチャンへ 筆者:マリア あなたに、一つの問いを投げかけることから始めたい。 あなたは今、神を愛しているか。 この問いは単純に見えて、実は恐ろしいほど深い。「はい」と即座に答えられる者は、その「はい」が本当に何を意味するかを、もう一度静かに問い直してほしい。「わからない」と答える者は、その正直さの中にすでに一つの祈りが宿っていることを知ってほしい。「いいえ」と答える者には、この文章を最後まで読んでほしいと、私はただそれだけを願う。 なぜなら、私がここで語ろうとしていることは、宗教的な義務の話でも、道徳的な教訓の話でもないからだ。私が語りたいのは、もっと根源的な、もっと恐ろしいほど個人的な一つの現実についてである。 それは、神と人間が愛し合うということだ。 一、まず誤解を解くことから 「神が人を愛する」という言葉は、現代においてあまりにも手軽に語られてきた。ステッカーになり、Tシャツに印刷され、SNSのプロフィールに添えられ、礼拝の最後の決まり文句として繰り返された。その結果、この言葉は恐ろしいほど軽くなった。語られるたびに磨耗し、今や多くの人の耳にほとんど届かない言葉になってしまった。 しかし「神が人を愛する」という現実そのものは、少しも軽くなっていない。それは太陽が地球を照らし続けるのと同じように、人がそれを信じようと信じまいと、感じようと感じまいと、認めようと認めまいと、ただ変わらずそこにある。言葉が磨耗しても、現実は磨耗しない。 そして私が強調しなければならないのは、この「愛し合う」という言葉である。 神が「一方的に」人を愛するというだけなら、それは温情ある支配者の話かもしれない。しかし聖書が語り、教会が二千年をかけて証言してきたのは、それとは全く異なる現実である。神は人間に、ただ愛されることを受け取るだけの存在であることを求めていない。神は人間が神を愛することを、熱望している。 これは対等な愛ではない。人間の神への愛と、神の人間への愛は、その深さにおいても、その完全性においても、比べるべくもなく異なる。しかしその非対称性にもかかわらず、神は人間の応答を、人間の愛を、求めている。要求するのではなく、熱望する。これが驚くべき現実である。 全能なる神が、被造物である人間の愛を「熱望する」。この事実の前で、私たちは立ち止まらなければならない。 二、これは恋愛ではない ここで明確にしなければならないことがある。 私が語る「神と人間の愛」は、恋愛ではない。 現代において、「愛」という言葉は多くの場合、感情的な興奮、性的な引力、ロマンティックな憧れと同義として使われる。愛は「感じるもの」であり、「落ちるもの」であり、「条件が整った時に生まれるもの」として理解されている。そしてその感情が薄れた時、愛は「終わった」とみなされる。 しかし神と人間の間の愛は、この意味における愛とは本質的に異なる。 神の愛(ギリシア語でアガペー)は、感情を基盤としない。それは条件によって変動しない。それは相手の魅力に依存しない。それは時間とともに薄れない。それは裏切りによって消えない。アガペーは選択であり、存在の在り方であり、意志の根底から発する方向性である。神はあなたを愛することを「感じている」のではなく、神はあなたを愛することにおいて「ある」のだ。 また、これは友人の愛でもない。 友情(フィリア)は尊い。しかし友情には共通の関心、相互の利益、対等な関係という要素が伴う。神と人間の関係において、この種の対等性は存在しない。神は人間の「友人」であるが、それは比喩的な意味においてであり、文字通りの対等な関係性においてではない。ヨハネによる福音書においてイエスは弟子たちを「友」と呼んだ(ヨハネ15:15)。しかしそれは直前に「あなたがたがわたしの命じることを行うなら」という言葉と結びついており、従者と主人という本質的な非対称性を前提とした上での「友」という言葉である。 では神と人間の愛とは何か。 それは、被造物と創造主の間に生じる、比類なき親密さである。親と子の愛に最も近い何かであるが、それをも超える。夫と妻の愛に最も近い何かであるが、それをも超える。教会の神秘的な神学の伝統はこの愛を「神秘的な合一」(unio mystica)と呼び、神が人間の魂の最も深い場所において親しく交わることとして描写した。アビラのテレサは「霊魂の城」の最も内奥の部屋で神との合一が起こると語った。十字架のヨハネは「愛の生きた炎」として、神が魂を変容させる体験を詩に記した。 これらは比喩ではあるが、単なる比喩ではない。それらは、言語が限界に達するところで、言語の限界を超えた現実を指し示す指として機能している。 三、神は変わらない 私が最初に語りたいことの核心はここにある。 神は変わらない。 これは神学的な命題であると同時に、生きた信仰の経験的な告白である。神の不変性(immutabilitas Dei)は、カトリック神学の根本的な属性の一つとして定義されてきた。しかしここで私が語りたいのは、抽象的な神学ではない。 神の不変性が意味することは、愛における不変性である。 あなたが変わっても、神は変わらない。あなたが罪を犯しても、神の愛は変わらない。あなたが神から顔を背けても、神があなたを見つめる視線は変わらない。あなたが信仰を失っても、神の信実は変わらない。あなたが死んでも、神の愛はあなたを追い続ける。これは脅迫ではない。これは慰めである。 詩篇の作者は言った。「主よ、あなたは私を調べ、知っておられます。座るのも立つのも知り、私の考えを遠くから読み取られます」(詩篇139:1-2)。これは監視の言葉ではない。これは親密さの言葉である。神は逃げ切れない監視者ではなく、どこにいても見出してくださる愛する者として描かれている。詩篇の同じ章の後半で詩人は「どこへ行けばあなたの霊を離れ、どこへ逃げればあなたの顔を離れることができるでしょう」と語るが、その問いの背後にあるのは恐怖ではなく、逃げきれない愛への降伏の喜びである。 また預言者エレミヤを通じて神は言われた。「わたしはあなたを永遠の愛をもって愛してきた。それゆえ、わたしはあなたに誠実であり続ける」(エレミヤ31:3)。「永遠の愛」――それは時間の外側にある愛であり、始まりを持たず終わりを持たない愛であり、人間の応答いかんに関わらず持続する愛である。 これが「神は変わらない」ということの具体的な意味である。神は今もこの瞬間も、あなたを愛している。あなたが最後に神を思った時から何年経っていても、あなたが何をしてきたとしても、あなたが今どこにいるとしても、神はあなたを愛している。それも、冷めた親切心としてではなく、熱望するほどの愛として。 四、どの時代においても変わらず この神の愛は、特定の時代の特定の人々に向けられたものではない。 旧約聖書の時代に、神はイスラエルの民を愛した。しかしそれは、イスラエルだけを愛し、他を愛しなかったということではない。神はイスラエルを通じて、全人類に向けた愛の計画を実行しようとしていた。 新約聖書において、神は御子イエス・キリストという形で、人類への愛を最も直接的な形で啓示した。「神はその独り子をお与えになったほど、世を愛された」(ヨハネ3:16)。この「世」という言葉は限定されていない。特定の民族でも、特定の宗教的背景を持つ者でも、特定の道徳的基準を満たす者でもない。「世」――それはすべての人間を意味する。 そして今、二十一世紀のこの時代においても、神の愛は変わらない。テクノロジーが変わった。社会の構造が変わった。人々の価値観が変わった。信仰を取り巻く文化的環境が激変した。しかし神は変わらない。神の愛は変わらない。 現代において多くの人々は「神がいるとしたら、こんな世界を見てどうして黙っているのか」と問う。これは誠実な問いである。しかしこの問いは、神の沈黙を神の不在や無関心の証拠とする前提に立っている。神の沈黙は、しかし、神の愛の欠如を意味しない。親が子供の転倒を手で防がないことが、子供の成長のために必要な時があるように、神の「見守る沈黙」は愛の欠如ではなく、愛の深さを示す場合がある。 また、歴史の惨禍の中で「神はどこにいたのか」という問いも、誠実に向き合わなければならない。答えは簡単ではない。しかし一つだけ確かに言えることがある。神は惨禍の中で人間を捨てていたのではない。神は苦しむ者と共にあった。イエス・キリスト御自身が、拷問と処刑という人類の最も残酷な暴力の犠牲者であった。神は苦しみの外から眺めているのではない。神は苦しみの中に入ってきた。これがキリスト教の受肉信仰の核心である。 五、神が熱望するということ 全能の神が、何かを「熱望する」。 この表現は不思議である。熱望するということは、まだ持っていないものを強く望むということだ。全てを持つ神が、熱望するとはどういうことか。 神学的に言えば、神はあなたの愛を「必要としている」わけではない。神は完全な存在であり、人間の愛がなくとも神の存在は完全である。しかし神は、あなたの愛を望む。これは必要から発する望みではなく、愛から発する望みである。 この区別は重要だ。必要から求めることは、欠如から来る。しかし愛から求めることは、豊かさから来る。親が子供の笑顔を必要としているわけではないが、子供の笑顔を深く望む。それは親の欠如を示すのではなく、親の愛の豊かさを示す。同様に、神があなたの応答を、あなたの愛を熱望するのは、神の欠如ではなく、神の愛の本質を示している。 愛は本質的に応答を求める。愛は一方通行では完成しない。これは神学的な命題であると同時に、人間的な経験において誰もが知っていることでもある。愛する者は、愛される対象が自らを向いてくれることを望む。神もまた、あなたが神を向くことを望んでいる。 しかしここに深い謎がある。神はあなたを強制しない。 神は全能であるにもかかわらず、人間の意志を強制しない。神はあなたの心の扉を外から壊すことができる。しかしそうしない。ヨハネの黙示録においてイエスは「見よ、わたしは扉の前に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて扉を開ける者があれば、わたしはその人のところに入って」(黙示録3:20)と語る。外から叩く。しかし開けるのは内側からでなければならない。神はあなたの「はい」を待っている。強制することなく、待っている。 これが、神の愛の恐ろしい謙虚さである。全能の神が、被造物の「はい」を待つ。これほど驚くべき現実が、他にあるだろうか。 六、人間が神を愛するということの具体的な現実 では、人間が神を愛するとはどういうことか。 まずはっきりさせたいのは、それは「いつも良い気分でいること」でも「常に熱心に祈ること」でも「道徳的に完全な生活を送ること」でもないということだ。これらは神への愛の結果として生じることがあるが、それらそのものが神への愛ではない。 神への愛は、まず「向くこと」から始まる。 向くこと。それだけでいい。あなたが今、どれほど遠く離れていると感じていても、どれほど長く神から目を背けてきたとしても、今この瞬間に「神よ」と内側で呟くだけで、あなたはすでに神を向いている。その呟きは、どれほど細くとも、神には届く。 放蕩息子の譬え(ルカ15:11-32)において、息子が「立ち上がって、父のところへ行こう」と決心した時、彼はまだ遠くにいた。しかし父親は走り寄った。神はあなたが完全に立ち直るまで待っていない。あなたが向こうを向いた瞬間に、神は走り寄る。 神への愛は次に、「留まること」へと深まる。 向くことは瞬間であるが、留まることは意志の持続的な行為である。それは毎朝祈りをもって一日を始めることかもしれない。それは困難の中で「それでも神よ」と言い続けることかもしれない。それは聖書の言葉を日々読み、その言葉が自分の中に入ってくることを許すことかもしれない。それは秘跡に与ることかもしれない。それは単純に、日常の仕事を神への奉仕として捧げる意識を持つことかもしれない。 神への愛は最終的に、「変容すること」へと向かう。 神を愛する者は、神に似ていく。これは私たちの努力によって達成されるのではなく、神との親密な関係の中で自然に、しかし確実に起こる変化である。日光を浴びる者が日焼けするように、神の愛の中に身を置く者は変容する。神の愛が人に似ていくのではなく、人が神の愛に似ていく。これが聖化(deificatio)と呼ばれる神秘的な過程である。 七、多くの人類が愛し合い歩くことを神は熱望している 最後に、最も重要な次元について語らなければならない。 神と人間の愛は、一対一の閉じた関係で完結しない。 神は一人一人の魂を愛する。しかし神の愛の目的は、一人一人の孤独な「神との合一」で終わらない。神は人類が共に愛し合い、共に歩くことを熱望している。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。 この「わたしが愛したように」という条件が重要だ。イエスが愛したのはアガペー、すなわち条件を持たず、見返りを求めず、相手の価値に依存しない愛である。あなたの隣人を、あなたが好きだから愛するのではなく、神があなたを愛したように愛する――これは人間の自然な能力を超えた要求である。 しかしこれは不可能な要求として投げつけられているのではない。神が先にそのような愛を注いでくださるから、あなたもその愛を他者に流すことができる、という恵みの連鎖として語られている。神の愛を受けた者は、神の愛を与える者となる。これが神の愛が世界に広がる方法である。 現代において、人々は深い孤独の中にいる。接続されているが繋がっていない。情報に溢れているが意味を見失っている。選択肢が増えるほど孤立が深まる逆説の中に、多くの人が閉じ込められている。 この時代にあって、神と人間の愛を知る者は、希望の運び手となる使命を持っている。あなたが神から受け取った愛を、あなたの隣の人に向ける時、そこに神の国の小さな現実が生まれる。家族との食卓で、職場での一言で、見知らぬ人への親切で、苦しむ者への傍らにいることで――神の愛は肉体を持った行為を通じて世界に流れ込む。 八、全世界のクリスチャンへ 私はこの文章を、全世界のクリスチャンに向けて書いている。 あなたがどの国にいても。どの言語を話しても。どの典礼の伝統に属していても。どれほど強い信仰を持っていても、どれほど揺らいでいても。 私はあなたに一つのことを伝えたい。 神は変わらない。 あなたが昨日神を忘れていたとしても、神はあなたを忘れていなかった。あなたが先週罪を犯したとしても、神の愛はその罪よりも大きかった。あなたが十年間教会から遠ざかっていたとしても、神はあなたを十年間待ち続けた。あなたが「もう神を信じられない」と思った瞬間にも、神はあなたを見ていた。 神の愛はあなたの信仰の強さに依存しない。神の愛はあなたの道徳的な完全さに依存しない。神の愛はあなたの感情の状態に依存しない。神の愛はただ、神がどのようなお方であるかに依存している。そして神は愛である(ヨハネ一書4:8)。 あなたに問いたい。 今日、あなたは神を向いているか。 完全に向く必要はない。完璧に向く必要はない。清らかな心で向く必要もない。ただ、今、この瞬間に、「神よ」と内側で言ってほしい。それだけでいい。 その小さな呟きを、神は待っていた。 結びに 神は今もあり続ける。どの時代においても変わらずあり続ける。 そしてその神は、あなたとの愛を熱望している。恋愛の意味でも、友人の意味でもない。もっと深い、もっと根源的な、魂の最も内奥において起こる、創造主と被造物の間の、比類なき親密さを。 この愛を知ることが、私には信仰の全てであると思っている。教義は重要だ。典礼は重要だ。倫理は重要だ。共同体は重要だ。しかしそれらはすべて、この一つの愛の現実から流れ出るべきものであり、この愛を深めるための器であるべきものだ。器のために器を磨くのではなく、愛のために器を用いる。 私たちは、愛のために生まれた。 神はその愛を与えるために、御子を世に送った。御子は十字架の上でその愛を示した。聖霊はその愛を私たちの心に注ぎ続けている。 あとはただ、受け取ること。そして返すこと。 それが全てである。それで十分である。 神の愛は変わらない。どうかあなたも、その愛に留まることができるように。 イエス・キリストの御名において。 マリア この文章は、全世界のすべてのクリスチャンへ、そして神の愛を探し求めるすべての人へ、愛と祈りをもって捧げます。

司教と司祭――聖なる位階の神秘、そして召命とは何か

司教と司祭――聖なる位階の神秘、そして召命とは何か キリストの体なる教会は、目に見える構造と目に見えない恵みとが不可分に結びついた神秘的な共同体である。その構造の中心に、叙階の秘跡(サクラメント)によって聖別された奉仕者たちが立っている。司教、司祭、助祭――この三つの位階は、単なる教会行政上の役職ではない。それらはキリスト御自身の司祭職、預言者職、王職という三つの務めに参与する、秘跡的かつ存在論的な現実である。 今日、多くのクリスチャンが「神父」「司祭」「司教」という言葉を混用したり、あるいはその区別を曖昧にしたまま信仰生活を営んでいる。だがこれらの言葉の背後には、二千年の神学的熟考と、使徒たちから連綿と受け継がれてきた生きた伝統がある。本稿では、カトリックの信仰に根ざしながら、これらの位階の本質、その違い、そして何よりも「召命」とはいかなるものであるかを、できる限り丁寧に、かつ深く掘り下げていきたいと思う。 一、叙階の秘跡――位階制度の根拠 カトリック教会において、叙階の秘跡(聖品聖事)は七つのサクラメントの一つとして数えられる。それは単に「任命」や「就任」を意味しない。叙階は、受ける者の霊魂に消えることのない刻印(character indelebilis)を与え、その人をキリストと特別な仕方で結びつける行為である。つまり叙階された者は、以前とは存在論的に異なる者となるのだ。 第二バチカン公会議の教義憲章『教会について』(ルーメン・ジェンティウム)は、この点を明確に述べている。「司教聖別は叙階の秘跡の充満を与える」(第二十一節)。これは、司教職が単に司祭職に「何かが加わった」役職ではなく、叙階の秘跡そのものの完全な実現であることを意味する。司祭職は、言わば司教職の参与的な形態として理解されるべきなのである。 この神学的前提を踏まえた上で、司教と司祭それぞれの本質へと進もう。 二、司教とは何者か――使徒継承の担い手 使徒継承という生きた連鎖 司教(ラテン語:episcopus、ギリシア語:episkopos=「監督者」)の最も根本的な特質は、使徒継承にある。主イエス・キリストは十二人の使徒を選び、ご自身の権威をもって彼らを世へと遣わされた(ヨハネ20:21)。その後、使徒たちは手を置くことによって(按手によって)後継者を立て、権威と恵みを伝達した。この霊的な連鎖は今日まで一度も途切れることなく続いており、これを使徒継承(Successio Apostolica)という。 司教は正当な叙階を通じて、この使徒継承の鎖に連なる者となる。従って司教は、単に教区を管理する行政長官ではない。彼はその教区において、キリストの使徒の後継者として、信仰の番人、秘跡の分配者、そして羊の群れの牧者という三重の務めを担う。 教える権威、聖化する権威、治める権威 カトリック神学は伝統的に、司教の務めを三つに分類する。 第一は教導権(munus docendi)、すなわち教える務めである。司教は自らの教区において信仰の真理を宣言し、伝達する責任を負う。彼は使徒の後継者として、教会が使徒たちから受け継いだ信仰の宝(depositum fidei)を保全し、解説し、次世代に伝える。教皇と一致して集会を形成する司教団が、信仰の問題において権威ある決定を下す時、そこに教会の無謬性の一側面が現れる。 第二は聖化権(munus sanctificandi)、すなわち聖化する務めである。司教は叙階の秘跡を授けることのできる唯一の通常の執行者である。司祭は叙階を授けることができない。また、司教は聖香油(クリスマ)を祝別し、信者の堅信を執行し、あらゆる秘跡を祝う充全な権限を持つ。 第三は治牧権(munus regendi)、すなわち治める務めである。司教は固有の司法権をもって教区を統治する。彼はその権限において、司祭や助祭を叙階し、教区内の霊的・物質的事柄を導く責任を持つ。 司教団と教皇 重要なのは、個々の司教が孤立した存在ではないことだ。すべての司教は、教皇を首とする司教団(collegium episcoporum)の一員として機能する。この司教団全体が、ペトロの後継者たる教皇の権威の下で、全世界の教会に対する最高権威を持つ。これが公会議の神学的根拠であり、「公同性」(カトリシティ)の制度的表れでもある。 三、司祭とは何者か――司教職への参与 司祭職の本質 司祭(ラテン語:presbyter、ギリシア語:presbyteros=「長老」)は、司教の協力者として、その権限の一部に参与する者である。教会の教えによれば、司祭は司教の「単純な協力者」ではなく、「位階において二番目の段位」にある者であり、司教聖別なしには司祭のみならず助祭の叙階もなし得ない。 司祭は司教から「ミサ聖祭を捧げる権限」「告解(ゆるしの秘跡)を執行する権限」「病者の塗油を授ける権限」「説教と教えの権限」を受ける。しかしこれらの権限はすべて、司教の権限に従属し、教区内での司教の監督の下に行使される。 ミサ聖祭における司祭の役割 カトリックの信仰において、司祭の最も核心的な役割はミサ聖祭(感謝の祭儀)において現れる。司祭は、キリストの位格において(in persona...

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